2026/06/19号 3面

東京裁判と帝国陸海軍軍人

東京裁判と帝国陸海軍軍人 中立 悠紀著 小菅 信子  今年は極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷から80年の節目にあたる。東京裁判は、対独ニュルンベルク裁判と並び、国際関係史上きわめて例外的な戦後裁判であった。著者は、東京裁判の否定と昭和期の戦争を擁護する思想的潮流を「スガモ思想」と名づけ、その形成と展開を跡づけている。著者によれば、その構築を担った中心的主体は、戦後に陸軍省・海軍省を統合した復員省の後継機構として厚生省内部に設置された復員官署法務調査部門(法調)であった。  法調は、戦争犯罪裁判への対策、戦争犯罪人および戦犯遺族への支援、靖国合祀への関与に加え、岸信介ら元戦犯(未起訴組)の政治家とも連携しつつ、戦犯釈放運動や援護立法を推進したとされる。また、インド代表判事パル判事の判決研究にも力を注いだという。著者はさらに、「スガモ思想」が旧軍人や政治家のみならず、四千万筆に及ぶ戦犯釈放署名運動に象徴される国民世論にも支えられていたことを明らかにする。そのうえで本書は、戦後日本の歴史問題や歴史修正・否認につながる「前夜」を実証的に描き出し、東京裁判の影響が現在の日本社会にまで及んでいると論じている。    *  本書の重要な特徴は、東京裁判後の日本社会に形成された歴史認識を、政治思想に還元するのではなく、宗教、社会運動、制度、感情の相互連関のなかで捉えようとしている点にある。従来、東京裁判批判や戦犯赦免運動は、保守政治家や右翼団体によるイデオロギー運動として理解されることが少なくなかった。しかし本書は、厚生省法務調査部門、遺族会、地方社会、宗教団体、さらには冷戦下の国際政治を含む複数の主体の連携のなかで、戦後保守の歴史認識が形成されていく過程を描き出している。この視角は、戦後日本におけるナショナリズム形成の過程を考えるうえでも示唆に富む。  とりわけ注目されるのは、本書が戦犯問題を単なる法的処遇の問題としてではなく、戦犯の社会的位置づけが再編されていく過程として把握している点である。戦犯赦免運動は、刑の軽減のみを要求したものではなく、戦犯をいかにみなすかの社会的意味づけをめぐる闘争でもあった。本書によれば、冷戦の進行にともない、戦犯はしだいに冷戦下の日本再建に必要な存在として再評価されていった。こうした変化は、占領政策の転換だけでなく、日本社会内部に広がっていた敗戦とその被害にまつわる感情とも結びついていたという。空襲、原爆、引揚げ、シベリア抑留などの経験が共有されるなかで、戦犯への同情や共感が形成されやすい社会的条件が存在していたという指摘は、本書の議論に厚みを与えている。  また本書は、「スガモ思想」と靖国神社との関係にも目を向けている。著者は、戦犯合祀を単なる宗教儀礼としてではなく、戦争の意味を再定義する政治文化的行為として位置づける。すなわち、東京裁判によって否定された戦争観を再構築し、戦死者や戦犯を国家共同体に殉じた存在としてふたたび顕彰する論理が、そこに見いだされるのである。その分析を通じて本書は、宗教と国家意識、追悼、政治権力の結合を描き出し、靖国問題を対外関係のみならず、戦後日本社会内部の価値意識の問題としても捉えている。  さらに、戦後日本において被爆者、元兵士、遺族、左派知識人、保守政治家など、多様な主体が戦争経験を語ってきたことを踏まえつつ、そのなかで法調ネットワークが「東京裁判=不当」というナラティブを長期的に制度化していったと論じる。そしてその回路が、後年の靖国問題、教科書問題へと連続していく可能性を示唆している。加えて、冷戦下における戦犯赦免が、国内保守勢力のみの要求ではなく、アメリカの対日政策転換と密接に連動していた点を指摘することにより、戦後保守政治の形成過程を国際政治と国内社会の双方から立体的に把握している。旧軍人や元戦犯の政治・行政・経済領域への再統合を、このような複眼的視点から捉えた点も本書の成果であろう。    *  本書は論争的な問題提起を含んでいる。第一に、「スガモ思想」という概念は独創的であると同時に、その射程と有効性をめぐって今後の検討を促すものである。本書では、東京裁判批判、戦犯赦免運動、靖国問題、保守的歴史認識などが一連の流れとして扱われ、1950年代の赦免運動が1890〜90年代以降の歴史修正主義的言説へと連なる一つの思想潮流として位置づけられている。もっとも、政治環境も社会背景も異なる複数の事象をどの程度連続的に捉えうるのかについては、なお慎重な検討が必要であり、本書を起点として継承・変容・断絶をめぐる実りある論争が展開されることを期待したい。  第二に、本書を手がかりとして、戦後日本社会の内部に存在した対抗言説をめぐる議論をさらに深める余地がある。戦犯赦免運動や靖国支持を支えた社会的基盤が大きかったことは確かであるが、同時に日本社会には、戦争責任論、平和運動、教科書裁判、市民運動など、戦争加害を問い続けようとする潮流も存在していた。したがって、戦後日本を敗戦被害中心の社会として強く描き出す場合には、多様な歴史認識がせめぎ合った対立構造が相対的に見えにくくなるおそれもある。  第三に、本書は主として日本国内の思想形成を対象としているため、中国、韓国、東南アジアなど、旧植民地・被占領地域との関係への言及は相対的に限られている。しかし歴史認識研究においては、国民国家内部の議論にとどまらず、とりわけ東アジア全体における歴史叙述の衝突と相互作用が重要な論点となってきた。その意味で、本書の刊行を契機として、日本国内の保守的歴史認識がアジア諸国の対日認識とどのように影響し合ってきたのかをめぐる議論が広がれば、本書の問題提起はいっそう国際的な射程を獲得するだろう。    *  本書の大きな意義は、戦後保守の歴史認識の枠組みを、冷戦体制と戦後社会の変動のなかから説明しようとした点にある。日本社会はなぜ、東京裁判を全面的な正義として受容しなかったのか。この問いに対して、本書は、日本人の国民性や倫理意識の欠如といった文化論的説明に回収されない、より歴史的で複合的な理解の可能性を提示している。敗戦、占領、戦犯裁判、冷戦、被害体験という複数の要因が重なり合うなかで、「スガモ思想」がいかに形成され、社会的説得力を獲得していったのかを解明しようとする本書が、東京裁判開廷80年の節目に公刊されたことの意義は小さくない。(こすげ・のぶこ=山梨学院大学法学部教授・日本近現代史・国際関係論)  ★なかだて・ゆうき=東京女子大学非常勤講師・日本近現代史。博士(学術)。

書籍

書籍名 東京裁判と帝国陸海軍軍人
ISBN13 9784622098478
ISBN10 4622098474