神学と社会理論
ジョン・ミルバンク著
長谷川 晴生
「強者」を「弱者」が憎悪して、力を持つ「強者」は「悪い」、力なき「弱者」こそ「良い」のだ、と価値を転倒しはじめたのがキリスト教であり、その延長にあるのが昨今の社会主義である、一方「超人」は「力への意志」を肯定する――こう理解するのが、素朴なニーチェ読解というものである。これに対して、二〇世紀の左派ニーチェ主義者は、ご本尊は単純な極右的世界観の持ち主ではなかったと言わんとして、ニーチェ的「強者」はいわゆる社会的「強者」とは異なるのだ、例えばクィアネスをも内包した存在なのだ、などと弁明を重ねてきた。では、逆に上のような「素朴なニーチェ」を認めてしまったうえで、「強者」の暴力を抑えるものがキリスト教であり、来たるべき社会主義が築かれるのもキリスト教の基盤のうえにほかならない、と開き直ったらどうなるか。おおまかにいえばこの戦略をとるのが、アングロ・カトリックの神学者、ジョン・ミルバンクによって「サッチャー政権時代のまっただ中に」著された本書、『神学と社会理論 世俗的理性を超えて』である。
こうした目論見のもと、題名にふさわしく、ミルバンクはマキャヴェリからフーコーにいたるまで有名どころをすべて網羅して社会思想史を検討してゆく。その際に基礎となるのは、近代の社会理論が対象とする「世俗的なるもの」は、みなキリスト教神学における「聖なるもの」から事後的に創出された、とする視点である。むろん、こうした見方はカール・シュミットの「政治神学」とも共通し、著者も幾度か名を挙げて言及している。ニーチェしかり「近代を最も鋭く批判した思想家たちは政治的右派に属して」いたのである。ただし、公法学者たるシュミットの関心がもっぱら「主権」であったのに対し、ミルバンクは「私有財産」、「能動的権利」、「契約」といった民事法上の概念も含めて神学的起源を主張する。著者によれば、世俗空間が神学の流用による構築物であるからこそ、あらゆる社会理論は、理性を持った主体が外界のカオスを統御するというキリスト教以前の古代の世界観に比べても酷薄にならざるを得ない。人間は「神の似姿」なのだからすべての存在者に無制限の権力を振いうるのであり、経済競争に敗れる者が現れたとしても「神の見えざる手」――要するにライプニッツやド・メーストルらが「摂理」と呼んでいたもの――の結果として肯定しなければならないのである。かくして、社会理論は「力こそすべて」へと、著者の言葉でいえば「存在論的暴力」へと傾斜してゆく。マルクス主義やポストモダニズムは資本主義の宗教性を正しく指摘したものの、前者は資本の自己崩壊というニヒリスティックな(現在でいう加速主義の)未来しか示し得ず、後者は「力の戯れ」が「支配的なゲーム」であることを受け入れるほかなかった。
いささか予定調和めくが、こうした近代社会思想と、それがどういうかたちであれ認めてしまう資本主義の現実とに対抗するメタナラティヴとして、ミルバンクは社会理論に簒奪されたのとは別のキリスト教の原理――「原理主義」でも「原理研究会」でもない――を、つまり歴史的かつ一回的に神の子の受肉と復活が起こってしまったことへの信仰を持ち出すわけである。その意味で、著者も言う通り、本書はヘーゲルを、ただし弁証法ではなく『キリスト教の精神とその運命』のヘーゲルを引き継いでいる。
言うまでもなく、著者いわく「護教」の書でもある『神学と社会理論』の結論は、(新教出版社の愛読者はともかく)キリスト教の圏外にいる大多数の日本語読者を戸惑わせる。しかし、例えば、近年の柄谷行人のような論者が、直接的にキリスト教とは言わないにせよ、「交換様式D」を説くのに「世界宗教」(ヴェーバー)に肯定的に論及するようになったのも、本書と相通ずる問題意識ゆえではあるまいか。そもそも宗教なくして有効な資本主義批判が可能なのか――かかる問いが我々に突き付けられている。(原田健二朗訳)(はせがわ・はるお=東京理科大学非常勤講師・近代ドイツ文学・思想)
★ジョン・ミルバンク=イギリスの神学者・哲学者。ランカスター大学、ケンブリッジ大学などで教鞭をとったのち、現在ノッティンガム大学名誉教授。著書に『キリストの怪物性』(未邦訳)『贈与交換』(未邦訳)など。一九五二年生。
書籍
| 書籍名 | 神学と社会理論 |
| ISBN13 | 9784400311058 |
| ISBN10 | 4400311058 |
