2025/03/07号 5面

「ルビッチとオフュリュス」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)382

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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 382 ルビッチとオフュリュス  JD フォードの映画の中にある動きとは何か。個人が集団に出会い、ひとつの集団をなし、またその集団が新たな集団をなし、それがさらに大きな集団となっていく。そうしたアメリカという国家の歴史に根差した運動が隠れているのです。『捜索者』の冒頭、ジョン・ウェインが帰還する際、彼は孤独です。しかし最後に帰還するときには、仲間を伴い、姪を抱え、なおかつ映像自体を見ても、冒頭の荒野ではなく、家畜の溢れる定住地に変わっています。フォードの映像作りの背景には、明らかに〈アメリカ〉国家が隠れています。けれども、そのことに関しては、何も説明されません。映画こそが、全てを物語っているのです。  さらに付け加えましょう。映画の冒頭は、外へと歩き出す母親の姿で始まっていました。カメラはそれに付き添い、外へと進んでいく。一方で最後の映像においては、異なる動きがなされています。ジョン・ウェインの手から離れ〈帰還〉する娘が、母親に向かい入れられ家の中へと入っていく。カメラはその動きに付き添いながら、家の中へと入っていく。そして、家族全員が家の中へと入る。しかしジョン・ウェインは家に入らずに、その場を去る。そして扉が閉まります。実に見事で、美しい閉幕です。  HK ご指摘の通り、確かにジョン・ウェインは、物語の終わりで家の中に入っていきません。『捜索者』だけでなく『駅馬車』でも、彼は最後に去っていく。物語の終わりに主人公が去るというのは、バッド・ベティカーの映画に関しても言えることではないでしょうか。ランドルフ・スコットは、物語の終わりに去る。それは、『風と共に去りぬ』でも同じです(笑)。その反対に、フランク・キャプラ、ルビッチ、ミネリの映画は、皆が集まり大団円で終わる。  JD 『風と共に去りぬ』は、違います。ウエスタンの巨匠の閉幕とは異なる仕組みで作られている。ただし、ある種の変形だと考えてもいいかもしれません。しかし、もっと大事な問題があります。なぜフォード映画の主人公が最後に去っていくのかということです。それを理解するためには、アメリカ映画そのものを考える必要があります。キャプラ、ルビッチ、ミネリといった映画作家は、ウエスタンとは異なる原理に属しています。その中でも、ルビッチは除外して考えなければなりません。彼はドイツの映画作家であり、アメリカの映画とは共通するテーマを持ちながらも、完全なアメリカ映画を作ることはなかったからです。  ラングやオフュリュスがアメリカの観客に完全には馴染めなかった一方で、ルビッチだけが受け入れられた理由は、彼の考え方にあります。ルビッチの映画の根本には「幸福のための快楽」があります。映画の中にある、ありとあらゆる要素が快楽的なのです。映像自体を見る快楽があり、登場人物たちの生き方を見る快楽があり、登場人物たちも自身を偽らず快楽的な生き方をしている。また彼の映画に関して話すことの快楽があります。あらゆることが「快楽主義」によって成り立っているのです。そうした「快楽的幸福」が、アメリカ映画のハッピーエンドの哲学と重なり合っているところがあった。それに対して、ラングやオフュリュスの映画は、暴力的であり悲劇的です。  オフュリュスの映画には、非常に繊細な「快楽」があります。彼の作品『快楽』を見れば、そのことはすぐにわかります。『たそがれの女心』であっても、『輪舞』であっても、『恋愛三昧』であっても、物語は悲劇として終わりますが、背後には幸福、生きることの快楽が隠されているのです。いえ、「隠されている」という表現は正しくありません。なぜなら、映画全体を通じて、その幸福は示されているからです。オフュリュスの幸福は、逆説的なのです。どういうことか。「私たちが何かに気づくのは、何かを失ったときである。または失いつつあるときである」。オフュリュスの映画を観た後には、真に心地の良い余韻が残ります。しかしながら、私の意見では、アメリカ人はそうしたことがまったくわかっていません。彼らは別の哲学の中に生きているからです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)