評伝 市川房枝
進藤 久美子著
酒井 晃
現在、日本のみならず、世界的にも政治の場では陰謀論や勇ましいナショナリズムが席巻しており、混迷の度を深めている。そのうえ、二〇二六年は日本の女性参政権行使八〇年にあたるものの、ジェンダー平等に逆行する考えが強まりつつある。そうしたなか、歴史のなかにおける(女性)政治運動の軌跡を追うことは、この国や世界がどのように形成されてきたのか考察する機会を与えてくれる。進藤久美子『評伝 市川房枝』は政治家・社会運動家市川房枝(一八九三~一九八一)のいわば「目」を通して見た、日本の政治や女性をめぐる近現代史となっている。
著者の進藤久美子は「曲がり角に立つ戦後民主政治」(一六頁)という現状を踏まえ、「はじめに」で市川へ着目する理由をこう述べている。市川は理想を掲げつつも、現実を見据えた運動をおこない、とりわけ、「政治とカネ」、軍事主義化への対峙、「女が望む政治」=「政治は生活」を実現しようと奮戦した人物であり、その足跡をたどることで、戦後政治の伏流を明らかにしようとする。
日本近現代女性史・ジェンダー史の文脈に即せば、これまで平塚らいてうを軸に母性保護や平和運動、女性運動などが議論されてきたものの、二〇一〇年代以降は市川の実践や成果が改めて関心を集めたことにより、市川に関する研究が相次いで出された。著者はアメリカ社会論を経て、市川に関する著作を数多く執筆してきた。本書はその集大成である。
さて、本書の特徴は、評伝と冠している通り、市川の生い立ちから戦前の女性運動、戦時協力、戦後の公職追放を経て、参議院議員五期二五年(一九五三~八一年)を網羅し、市川自身が書き記した論説・回想録・書簡・日記、市川の周りにいた人びとの証言等を用いて、その歩みを丹念に追っている点にある。順に見ていこう。
第一章から第三章までの戦前期では、市川の生育環境や教育経験から説き起こし、小学校教員、新聞記者、友愛会婦人部などの経歴を経て、新婦人協会やアメリカ生活、婦選運動の実践を描いている。とりわけ第三章は戦前期のハイライトとして、市川の女性参政権運動における現実主義的アプローチの運動戦略を描きつつ、女性の地位向上に少しでも寄与しようとした市川の姿を活写している。第四章・第五章の戦時期では、日本の侵略戦争へ反対の立場をとっていた市川が「婦選の灯」を消すまいと運動を推進するなかで、戦時協力へと至った経緯を記述している。そして、戦争反対が公然とは語れない状況のなかで市川自身が何を考えていたのか、その内面に肉薄しようとしている。第六章から第八章の戦後期では、占領期の三年七か月にわたる公職追放に触れ、参議院議員の活動に焦点を当てる。特に第七章から第八章では、クリーン・ポリティクスとしての運動戦略が、戦前期からの運動実践に連なるものと捉えられている。第九章では、市川が残したレガシーを、戦後の女性運動や平和運動、女性施策の観点から検討している。
本書は市川が理想の政治を掲げつつも、現実を常に意識しており、状況のなかでいま何ができるかを考え、実行した人物であったことを生き生きと描いている。しかし結果として、戦時期には現実に飲み込まれてしまった点については、著者は一刀両断に断罪することなく、当時の状況について、市川とともに悩みながら筆を進めている。そこからは、市川のレガシーを継承しようとする著者自身の歴史への姿勢が見て取れるだろう。ただし、著者が立脚する戦後民主主義の問題設定そのものも、現在では問われている。市川がおこなった実践が決して過去の遺物ではなく、現代の問題として関心を集めているのは、理想と現実のはざまで生き、周囲の人びとを巻き込む、その力強さこそが魅力的にうつるからではないだろうか。その意味で本書は、戦後民主主義とともに歩んだ著者がその魅力に対して、どのように向き合うべきかを示した一つの答えといえよう。(さかい・あきら=日本女子大学助教・日本近現代史)
★しんどう・くみこ=東洋英和女学院大学名誉教授・アメリカ社会論・ジェンダー学。立教大学大学院博士課程単位取得満期退学。著書に『ジェンダー・ポリティックス』など
書籍
| 書籍名 | 評伝 市川房枝 |
| ISBN13 | 9784480018441 |
| ISBN10 | 4480018441 |
