『遠い国 遠い言葉 柄谷行人未刊行文集』(読書人)を読む〔評=大澤 真幸〕
<『資本論』の中に予言されていたことを見出す>
思想家・柄谷行人氏が1970年代に執筆し、今まで書籍化されてこなかった批評・論文等を集めた『遠い国 遠い言葉 柄谷行人未刊行文集』が昨年末刊行された。大澤真幸氏に長篇書評(400字詰13枚)を寄稿してもらった。 (編集部)
本書は、柄谷行人氏が1970年代に書いたエッセイ、小論、評論等で、書籍に収録されなかった文章を集めたものである。柄谷氏が三〇代のときに書いた文章だ。まず驚くのは、その量の多さである。この頃、柄谷氏はすでに、『畏怖する人間』や『意味という病』等、何冊かの本を発表しているが、最終的にどの書籍にも入れられなかった文章が、こんなにたくさんあったとは! 本書は、六五〇頁近い大冊で、これは、おそらく書籍化された氏の同時期の文章の総量よりも多い。しかも――念のために書いておくが――、どの文章も、駄作だったから書籍に入れなかった、とはとうてい思えない。ごく短いエッセイも含めて、どれも「珠玉の」という形容詞はこのためにあったと言いたくなる、強い魅力を発している文章ばかりである。
収録されている文章の種類は、非常に多様。本格的な文芸批評もあれば、映画批評もかなりたくさん含まれている。1972年の一年間の文芸時評もある。もちろん、さまざまな日常的なことを話題にしたエッセイもある。「自然成長性」(マルクス)等の概念について考察した哲学的エッセイもある。日本の近代文学とキリスト教の関係から私小説の発生を論ずる評論の独創性にはびっくりするし、「作品と作者の距離」に着眼した文体論も実におもしろい。インタビューのような語り口調の文章もある。……
本書のタイトルは、柄谷氏と作家の坂上弘氏が1976年に文芸誌上で四回にわたって公表するかたちで交わした、長文の往復書簡の総タイトルに由来する。この年は、柄谷氏が、アメリカ(イェール大学)に滞在していた時期にあたる。ゆえに「遠い国 遠い言葉」。
この往復書簡は、「柄谷行人」の熱心な読者ならば絶対に見逃せない、本書の読みどころのひとつにもなっている。というのも、柄谷氏がこれほど率直に自身の日常生活や人間関係について多くを語った文章はほかにないからだ。柄谷氏が、アメリカで日々、どんなことを考えていたのか、『マルクスその可能性の中心』に至る過程に、ポール・ド・マンをはじめとするどんな人物との交流があったのか等がわかり、非常に興味深い。ちなみに、ド・マンとの出会いは、こう書かれている。「私は若い学者らが前から畏敬の念をこめて口にするポール・ド・マンという比較文学の教授に、しまいに光源に引きよせられるようにして会いました」。
ところで、あとがきによると、「遠い国」「遠い言葉」という語には、比喩的な、もうひとつの意味が込められている。本書の文章はすべて、「世界全体を文学のオーラが包んでいたような、文学が輝かしかった時代の濃厚な名残のなかで書かれた」と。そういう時代は、今や遠い国のようであり、そこで書かれたものは遠い言葉になっている、というわけだ。
確かに、本書に収録された文章を読んでいると、「柄谷さんも今だったらこういうふうには書かないだろうな」という印象をもつ。理論的な明晰性よりも感性にもとづく把持を優先させているからだ。遠い国の言葉のように感じる。が、同時に、私が最も驚いたことは、その遠くからやってくる言葉が、一挙にすぐ近くに、私自身の最も親密な核の部分に襲ってくるような感覚をも得たことである。ここに書かれていることは遠い言葉かもしれないが、私たちは――いや少なくとも私は――、文学のオーラをもつこうした文章を今でも渇望している。
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本書は、統一性を意図して作られてはいないので、一本の書評の中で全体を論じると、本書の本性を裏切ることになる。このあとは、ひとつの側面に絞って書くことにする。本書で言及されている多数の思想家や文学者の中で最も重要な人物、柄谷氏のその後の展開との関連でも特に重視すべき人物は、もちろんマルクスである。本書の中に、マルクスを主題とする文章は、四つある。中でも、「マルクスの系譜学」(1977―78年)という連載は、往復書簡を別にすると本書で最も長文のエッセイで、しかも明確な完結性を備えている。以下は、このエッセイを中心に本書を紹介しよう。
「マルクスの系譜学」の――序文にあたる「予備的考察」に続く――本文は、「貨幣の形而上学」と題されている。ここで、『資本論』の価値形態論の、恐ろしいほどに独創的な読みが展開される。価値形態論は、普通は、貨幣の生成を説明している箇所と見なされている。しかし、柄谷氏の読みでは、価値形態論はもっと普遍的な問いに挑んでいる。超越論性(超越論的なもの)の起源への問いに、である。
超越論性とは何か? 次のような意味である。たとえば商品には内在的価値がある、というところから経済学は始める。しかしそのように自明視できるのは、質的に多様な商品(使用価値)を同一化する価値、使用価値を通約する内在的な価値を可能にしている超越論性があるからだ。それが、貨幣(一般的価値形態)である。
宗教に即していえば、人間を同一化する唯一神が超越論性にあたるのは、言うまでもない。貴族を排除した近代国家は、市民たちの民主主義的な同質性を前提にしている。この前提が成り立つためには、しかし、それを実現する、超越論的な条件が不可欠である。たとえば、絶対化された王権がそのような条件である。科学の場合はどうなのか。科学の客観性は、感性的な確実さから来ているわけではない。客観性は、数学にもとづいている。つまり、数学(あるいは数)が超越論性である。
このように、宗教でも、法や国家でも、経済でも、科学でも、同じ問題がある。貨幣形態に類する超越(論)性の起源、という問題である。ただし、それは、いつどこで最初の貨幣が誕生し、どのように普及し……というような物語としての歴史を語ることではない。そうではなく、問われているのは、そのような物語的な歴史を可能にしている条件(超越論性)の起源であり、歴史である。
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「貨幣の形而上学」の冒頭で、貨幣は文字である、というびっくりするような認識が示される。話し言葉においては、話し手と聞き手が同時にいるが、文字は両者を引き離す。同様に、貨幣は売りと買いを分裂させる。ゆえに文字である。貨幣=文字と見なすことは、話すこと(売ること)と聞くこと(買うこと)が合致するようなコミュニケーション(交換)の透明さを、形而上学として拒否することを含意している。
透明さ、つまり直接の現前性が可能であるように思うのは、自己自身が話す音声を聞くからである。ジャック・デリダは、西洋形而上学をこの種の音声中心主義だとする。そして、文字を二次的なものとする形而上学の源泉は、音声的文字(アルファベット)だというのが、デリダの主張であった。柄谷氏によれば、貨幣もまた、音声的文字である。確かに、貨幣に依拠すると、売りと買いとの分離がいつでも克服可能な派生的事態に見えてくる。
音声的文字としての貨幣形態の起源をどう問えばよいのか。価値形態論は、「等価」も「共通の本質」もない、たんなる二つの相異なる対象物(使用価値)の関係(差異)から始まっている。「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」である。
x量商品A=y量商品B (x量の商品Aはy量の商品Bに値する)
この等式は、数学のそれとちがって対称的ではなく、左辺(A)が相対的価値形態、右辺(B)が等価形態と呼ばれる。柄谷氏はさらに、前者が「意味されるもの」、後者が「意味するもの」で、両者の結合である価値形態は記号になっている、と看破する。これは、純粋な関係=差異である。
結局、体系を中心化する貨幣を取り除けば、そこに見出されるのは、使用価値たちの関係(差異化)のたわむれである。柄谷氏によれば、この根源的な差異化こそが、意味や価値や対象物を派生させている。それなのに、この派生物の方が、先験的なもののように映る(遠近法的倒錯)。どうしてそのように転倒が生ずるのか。シニフィアンとしての使用価値の関係(差異化)が抑圧されるからだ。では、いつ抑圧されるのか。つねにシニフィアンであり続ける中心、つまり貨幣(一般的等価物)が現れるときだ……と柄谷氏は論ずる。
同じことは近代国家でも言える。近代国家は、先に示唆したように、質的同一性(身分を解体した民主主義的な同質性)において成立する。国家を成り立たせる超越性を、ホッブズは、自然状態から、すなわち孤立し敵対しあう諸個人から説明した。しかし、敵対しているのは同質的な個人であり、これらは、根源的な差異(価値形態)が隠蔽されたあとに見出されるものでしかない。では、近代国家の場合、根源的な差異(価値形態)にあたるものは何か。柄谷氏の答えは、「階級闘争」である。確かに、価値形態の関係は、労働(相対的価値形態)と資本(等価形態)の関係と類比的である。
近代国家は質的同一化に根ざしている。この論点の延長線上で、柄谷氏は、近代ヨーロッパが世界を制覇したのはどうしてなのか、という疑問に関して、すばらしい洞察を発揮する。ヨーロッパを強力なものにしたのは、質的同一性である、と。一方で、キリスト教の布教によって、神の前での個々人の同一性を説き、他方で、貨幣経済にまきこむことで、異質な労働を同質化し、量的な差異に還元する。ヨーロッパ中心主義は、諸文化の質的差異を量的差異として顕在化させる同一性をヨーロッパがもたらしたことによって確実になった。今日の〝DEI〟は、明らかに、このヨーロッパ的なものの発展である。
科学の確実性の根拠になっている数の超越論性の起源については、どうであろうか。これは、商品の価値の背後に「労働時間」が隠れている、という発想がどのように生まれたのか、という問題を解く中で答えられている。「労働時間」は最初は、機械生産において客観的に計量可能なものとしてあらわれた。しかし、労働時間をすべての商品に適応できたのは、商品が貨幣を媒介にして等置され同一化されるからである。商品の価値は「労働時間」の表現であるという説明は、経済現象を整合的に説明しうる仮設にすぎないが、科学者がそのように考えることができたのは、貨幣形態が、それぞれの商品が価値を内在するという形而上学を完成させていたからである。この「労働時間」の部分を、「数」に一般化すれば、数学の超越論性も貨幣形態に基づいていることになる。
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三〇代の柄谷氏による、価値形態論のまことに野心的な読解を、超特急で見てきた。柄谷氏自身はおそらくあまり自覚していないが、ここで見出されたことが、今日の交換様式論に遠い反響を残しているように見える。価値形態論は、直接的には交換様式Cにつながっているが、ここで柄谷氏が価値形態論から引き出していることの射程は、もっと大きい。
まず、ここで「根源的な差異化」「使用価値の関係のたわむれ」等と呼ばれている様相は、最も重要な交換様式、つまり交換様式Dの原点のように見える。そして、他の三つの交換様式A、B、Cは、超越論性によって交換様式D(としてあらわれる欲動)を抑圧する三つの様式である。
それにしても、すでに書かれていることを読むことを通じて、これほど独創的な見方を提示できるのは、驚きである。本書に収録されているひとつのエッセイの中で、次のように書かれている。「あらゆることはすでに前もって語られている、すなわち予言されているが、それを予言として見出すことこそ創造的なのである」。柄谷氏は、『資本論』の中に予言されていたことを見出した、ということになる。
私はむしろ、フランスの文学研究者ピエール・バイヤールのいう「予感による剽窃」を感じる。マルクスの方が、未来の柄谷氏のテクストを、予感を媒介にして剽窃していたのだ、と。もちろん、そんなことはありえないわけだが……。
「予言」と「剽窃」は結局、同じことをいっているのだが、どちらの語を用いるにせよ、確実なことは、柄谷氏が読み、見出すまでは、誰もそれに気づかなかった、ということだ。きわめて個性的な読解なのに、テクストの主観的な歪曲や恣意的な思い入れのようなものはいささかも感じさせない。いったん柄谷氏に見出されれば、まさしく、そのように書かれている(予言されている、剽窃している)としか読めないからふしぎである。
やはり本書に収録されている「戦後文学と現在」という新聞に寄稿した短いエッセイの中で、柄谷氏は、柳田国男を引きつつ、「いきた『もの』」と「宙にういた観念」を対比させ、「もの」、つまり確たる感受性を失ったとき、人は観念を求める、と論じている。その上で、梅崎春生の小説『幻化』をとりあげ、この小説の主人公は――他の戦後派作家とは異なり――「もの」を見出そうとしている、と解釈する。
私には、柄谷氏も、「もの」を見出そうとしているように見える。その上、「宙にういた観念」ではなく、「もの」にはっきりと結びついている観念をも求めている。それが柄谷行人という思想家ではないか。本書において、私たちは、まさに「観念」が「もの」に接続している現場を見ているのではないか。(おおさわ・まさち=社会学者)
★からたに・こうじん=思想家。近著に『定本力と交換様式』など。一九四一年生。
書籍
| 書籍名 | 遠い国 遠い言葉 |
| ISBN13 | 9784924671997 |
| ISBN10 | 4924671991 |
