ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 433
映画が若かった時代、私たちも若かった
HK 最初期の『カイエ』では、同時代だけではなく過去の映画監督など、様々な発見をしてきては、作家としての価値を考えたり、映画の新しい形を考えたりしていました。そこには、ある種の探究的な発展が見られます。現在、過去、未来が合わさり、何かを作ろうとする意思があったと思います。それが、おおよそ八〇年代くらいまで続いていたのではないでしょうか。その探求的な姿勢は、エイゼンシュテインたちの探求に似通っているところがあったかもしれません。
JD なぜなら私たちは若かったし、映画もまた若かったからです(笑)。正確に言えば、私たちの時代に映画が若かったというのは、正確な表現ではありませんが――その時点で、誕生からすでに五〇年近くの歴史があったからです――、今日ほど体系化されたものではありませんでした。私たちの世代は五〇年分の映画を見れば十分でしたが、あなたたちの世代は一〇〇年以上にわたる映画を見なければならない(笑)。さらには、DVDや諸々のメディアを通じて、世界中の映画を見ることができるようになりました。見るべき映画作家や作品は、以前よりもずっと増えていて、また今日、創造的な映画を生み出すのは難しくなっています。
私たちの世代においては、現在のシネマテークが行う、映画作家ごとのレトロスペクティブもなければ、見ることのできない作品も多々ありました。ニコラス・レイやサミュエル・フラーなどのアメリカ映画を、フランスで見ることには困難が伴っていました。日本映画もほとんど見ることはできませんでした。私は本当に溝口の映画が見たかった。しかし、その大部分を見ることができたのは、六〇年代に入ってからのことです。小津の映画を見たのも同じぐらいの時期です。だから一〇年近くにわたり、彼らの映画を待ち望んでいる状態でした。
私たちの世代の問題は、まさにそこにあったのです。私たちは映画に興味を持ち、映画が芸術であるかもしれないという可能性に賭けることになったのです。しかしながら、その「映画芸術」が何かを指し示すものかは、まだわかっていなかった。それ故、常に手探り状態で探っていく必要がありました。
ヒッチコック、ホークスなどの映画作家は、一般的に人気があったので、簡単に見ることができました。そして、そこにこそ「映画芸術」があると直感的に理解し、証明しようとしたのです。それは「作家主義」と名付けられることになり、誰もがその言葉を真似て使うようになります。
HK 映画史を初歩的にでも学ぶと、作家主義とヒッチコック、ホークスの名前が結び付けられますが、どうしてその二人の映画作家だったのでしょうか。他にはニコラス・レイやサミュエル・フラーなど、B級映画を作っていた人々が議論の中心にあって、フォード、ルノワール、ロッセリーニなどは「作家主義」とはあまり結びつけられません。
JD 彼らと「作家主義」は結びついています! ルノワールとロッセリーニを抜きにして「作家主義」は考えられません。『カイエ』は彼らと一心同体でした。
彼らの映画は、商業的にも批評的にも決して良い結果を収めていませんでした。ロッセリーニに関しては、大スターのイングリッド・バーグマンを誑かした男として、ゴシップ誌の三面記事のようなくだらない非難ばかり浴びていました。彼は『無防備都市』を過去に撮った映画作家となり、その後の作品は評判が悪かった。ロッセリーニの作品を全面的に擁護し続けたのは『カイエ』だけです。彼はアンドレ・バザンにすら、擁護されていました。しかしながらバザンは、ヒッチコックとホークスは理解できていなかった。私たちよりも以前の世代の批評家であり、映画に対して、神秘的で……哲学的な考えを持っていました。ロッセリーニは、そうした見方の一部を体現していたのです。
しかし、バザンにとってヒッチコックやホークスの映画は突飛なものであり、私たち若い世代の批評家がなぜ夢中になっているか、心の底からは理解できていませんでした。そうした意味においては、「作家主義」とヒッチコック、ホークスが結びつくというのは事実です。しかし、他の映画作家も当然結びついています。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
