2026/07/17号 7面

古事記研究 神話篇

古事記研究 神話篇       近代篇 三浦 佑之著 奥田 俊博  このたび、青土社から『古事記研究 神話篇』『古事記研究 近代篇』の二冊(以下、『神話篇』『近代篇』と略称する)が同時に刊行された。著者の三浦佑之氏は、評者が最近気になっていた研究者である。著者は現在の古事記研究を牽引する研究者であり、一方、評者は主として古代日本文献(正倉院文書等の一次資料も含む)の文字表記研究を地味にやっている者である。研究領域が異なっていることもあって、著者の研究とはこれまでさほど接点がなかった。  だが、ここ数年、評者が古事記に現れる神名の文字表現について検討するようになり、著者の著作を参考にする機会が増えた。とりわけ、「古事記神名辞典」(『古事記の神々』(角川ソフィア文庫、二〇二〇年)に収録)がたいへん参考になった。  著者は一九四六年生まれ。今年八十歳になる。二冊の本を同時に刊行するというパワーを見習いたい。「古事記研究」という書名も見逃せない。評者は西郷信綱の同名の著作(未來社、一九七三年)を想起したが、はたして『神話篇』の「まえがき」には、「お気づき のことと思うが、「古事記研究」というタイトルは西郷信綱氏の代表作のそれを借用した」(7頁)とある。  『近代篇』はⅠ~Ⅳの章立てからなるが、後半のⅢ「西郷信綱研究」で西郷信綱を取り上げ、Ⅳ「国文学的叙事詩研究」も西郷信綱を中心に据えて論じている。『近代篇』の「あとがき」には、西郷信綱のように生きたいと願いつつ、西郷信綱『古事記の世界』(岩波新書、一九六七年)、前掲『古事記研究』を語ることにより、古事記という古典を未来へと続く軌道に乗せたいという思いが述べられる。  『近代篇』の前半は、Ⅰ「近代国家と古事記」、Ⅱ「ラフカディオ・ハーン 異界と古事記」からなる。Ⅰは、明治期から戦前にかけて、古事記がどのように位置付けられたか、神話画、国定教科書、教育紙芝居等の資料に基づいて論じられている。Ⅱは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の日本古典・日本文化の理解を辿るとともに、彼の生い立ちとどのように関わるかを論じたものである。いずれも、近代における古事記の受容のありようが丹念に論じられている。  『近代篇』が古事記の近代における受容を中心に編まれているのに対して、『神話篇』は古事記の解釈、万葉集との関係、古事記に掲げられている地名との関係を中心に論じたものである。その中で、Ⅲ「古事記を歩く」の第5章「伊勢の国を歩いた神と人」が興味を引く。著者は三重県のお生まれ。第5章は二〇二一年に伊勢新聞朝刊に連載された記事に基づいて執筆されている。女鳥王と速総別王の逃避行に関してアメリカ映画『俺たちに明日はない』を思い出すことや、逃避行と当該地域の伝承との相違などが記載されていて、たいへん興味深い。  著者の古事記の読解は鋭い。スサノオのオオゲツヒメ殺害の神話が、その後に続くスサノオのヤマタノオロチ退治の神話とセットになっているという指摘(『神話篇』Ⅲ第3章「出雲神話の女神たち」)は、『出雲神話論』(講談社、二〇一九年)にも言及されているが、鋭い見解である。古事記を文脈に即して読むという姿勢から学ぶところは多い。  著者による著者自身に対する自己分析が吐露されるが、その自己分析も好感が持てる。少し細かい評言になってしまい恐縮だが、『神話篇』Ⅰ第3章「誤読された黄泉の国」において、古代日本文学の研究者である西條勉氏と神野志隆光氏が古事記の作品論に向かおうとしているのに対して、著者が古事記の古層へと向かおうとしているところで方向が大きく異なったという分析の後、「おそらくわたしは、発生論や様式論、そして語り論といった方法論のなかで古事記研究を模索し組み立ててきたために、文字に統御され完成されたテクストとして古事記を読むことができず(あるいは興味が持てず)、いつもどこかで、深みに潜入するための破綻や綻びを探してしまう」(65頁)のように自身の研究の姿勢を分析する。こういった自己分析に評者は共感してしまうところがある。  両書において著者は、論が強引かもしれないと断って論じることがある。評者も、強引かな、と思いつつ、論の枠組が興味深いのでついつい読み進めるのだが、気になった記述もある。『神話篇』Ⅱ第2章「神仙世界の広がり 「竹取翁歌」と竹取物語」において、万葉集巻十六の「竹取翁歌」序に見える「季春之月」を三月の月が出ている夜と解する。そのように解する方が竹取物語との親縁性が強まるのではないか、と考えてのことである(初出の論文にはなかった記述)。しかし、「季春之月」は『礼記』(月令)をはじめ、漢籍に頻出する語であり、その点も踏まえて論じてほしいところである。  著者は、『近代篇』Ⅰの第3章「「国譲り」という目眩まし」等において、オオクニヌシの「国譲り」を「出雲制圧神話」として捉えようとする。そこには、「国譲り」という語の使用が、意識しないままに国家(王権)の側に寄り添って発想しているのではないか、という著者の危惧がある。  また、著者は、正史の日本書紀に対して古事記を「稗史」と位置付ける。稗史とは、著者によれば「国家の正史とは違う、おもに民間における「語り」を背景として伝えられた真偽未詳の歴史」(『神話篇』26頁)である。  先日、古事記学会全国大会(奈良大学)の講演会において著者は「記紀、国譲り、叙事詩、そして稗史」と題した講演を行った。若い研究者への熱い思いが伝わってくる講演において、破れ傘の傘寿、と自身を謙遜していたが、『神話篇』(26頁)では「稗史」についてはいずれきちんと論じる予定であると意欲を見せている。  著者は、日本書紀=正史、古事記=稗史という二項対立的な捉え方によって、古事記という文献の受容史をどのように明確にし、古事記に対する観点をどのように提示しようとするのか。今後の著者の追究が楽しみである。追究をより良く理解するためにも、両書を繙かれることをお勧めしたい。(おくだ・としひろ=九州共立大学教授・上代文学・日本語学)  ★みうら・すけゆき=千葉大学名誉教授・古代文学・伝承文学。著書に『村落伝承論』『古事記を読み直す』、訳書に『口語訳古事記』など。一九四六年生。

書籍

書籍名 古事記研究 神話篇
ISBN13 9784791777822
ISBN10 4791777824