新カント派の哲学と近代日本
伊藤 貴雄編著
城戸 淳
「新カント派」という言葉から思い出されるのは、ふるい岩波文庫の手ざわりである。一九九〇年代に学生時代をすごした私にとって、新カント派の哲学者たちの邦訳書は、カッシーラーなどの例外をのぞけば、たいていは古書店でしか買うことのできないものだった。ヴィンデルバントやリッケルトなど、戦前に訳されたものが、いつの間にか絶版になって、パラフィン紙に包まれて古本屋の本棚でしずかに眠っていた。
新カント派とは、ヘーゲル式の思弁哲学が衰退するのと入れかわるように、一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてのドイツにおいて、「カントに帰れ」のスローガンとともに展開されたカント復興の哲学運動である。その運動は世界各国にも及んだが、とりわけ近代的な自己形成の途上にあった日本に与えた影響は大きかった。ドイツの新カント派の隆盛期と重なる明治末のころはもとより、ドイツ本国ではすでに新カント派がすたれた第一次世界大戦(一九一四―一九年)とその戦後にいたっても、新カント派の著作はいっそう熱心に邦訳されて、「大正デモクラシー」や「文化主義」などで知られる大正年間(一九一二―二六年)の学知を支え、さらには昭和初期まで命脈を保っていた。古書店の本棚に並んでいた岩波文庫はその名残りである。
本書『新カント派の哲学と近代日本──受容と展開』は、その表題がしめすとおり、近代日本における新カント派の受容史をあつかう論集である。本書はなんといっても規模が尋常ではない。論じられるのは、日本人の知識人にかぎって紹介すれば、明治期末の桑木厳翼から、大正期の左右田喜一郎、西田幾多郎、朝永三十郎、田邊元、土田杏村、さらに昭和期の三木清、牧口常三郎、横光利一、河合栄治郎、南原繁であり、全一七章の威容である。さらには数ページのコラムが二四本、収められており、その多くは、ロッツェやラスクといった新カント派の哲学者から、丸山眞男や廣松渉などの昭和の知識人にいたるまでの、じつに多彩な人物案内の記事である。本書はこのような充実した目次の、七〇〇頁にせまる大著であり、新カント派の受容史の大パノラマを見せてくれる。偉業といってよい達成であり、編者の伊藤貴雄氏をはじめとする二九名の執筆者、そして出版社の意気と気骨には感服するほかない。
歴史に埋もれた観のある新カント派であるが、近年ではドイツ語や英語の研究文献においては、現代的な再評価が試みられるようなってきた。しかし本書の問いは、新カント派の哲学そのものにではなく、編者によれば「近代日本の知識人たちにとって、新カント派哲学とはそもそも何であったか」にある。新カント派の哲学は、狭義の哲学や思想にとどまらず、経済学、政治学、文学、教育学など、人文社会科学の諸領域にわたって、近代日本の学知の骨組みを形作ることに寄与した。本書はその寄与の具体相と全体を見極めることをめざしている。
もちろん近代日本の知識人に影響を与えたのは、新カント派の哲学ばかりではない。官製の講壇哲学のがわにいくらか偏ったかたちで展開した新カント派の受容の裏がわでは、たとえば、ニーチェやベルグソンの流行といった現象があった。ニーチェについては、杉田弘子著『漱石の『猫』とニーチェ──稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち』(白水社、二〇一〇年)が出色である。あるいは最近では、牧野英二著『京都学派とディルタイ哲学──日本近代思想の忘却された水脈』(法政大学出版局、二〇二四年)が、京都学派のディルタイ受容をたどっている。新カント派の受容史は、こうした明治以後の西洋思想のさまざまな受容を跡づける近代日本思想史の研究が活況をみせるなかでも、近年の進展がとぼしい領域であったので、本書は待望の一冊である。
新カント派の軽視は、江戸時代の学問にさかのぼっていえば、幕府の官学であった朱子学よりも、それに対抗する国学や陽明学のほうが現代からは際立って見えがちであるという事情とも重なるかもしれない。大正期の講壇哲学ともいうべき新カント派は、これまで思想史家の判官贔屓で割を食ってきたといえるだろう。ついでながら、朝永が信頼を寄せたようにカントと新カント派の本質は「理性」の哲学であるが、そもそも理性とは西周が「道理ヲ知ルノ性ナリ」として定めた訳語であり、これは朱子学の理論体系を背景にしている。
本書は、どのようにして新カント派の哲学が編者のいう当時の諸学問の「共通言語」を形成していったのか、それを人物と人物とをつなぐようにして見せてくれる。そして、それはたんに遠いむかしの講壇哲学の回顧談ではない。新カント派の哲学者たちがとなえた「価値」「文化」「人格」などの諸概念は、近代日本の知識人がそれらを咀嚼して、近代的な諸学問の礎として活用したことによって、第二次世界大戦後においても基盤的な共通言語として妥当しつづけた。こんにちでも、われわれはその地平のなかであたりまえのように思考して、語りあっているのであり、新カント派は現代日本を支える古層であるといえる。新カント派の受容史を再考することは、この古層をほりおこす自己反省の試みなのである。
本書を読みすすめてあらためて思うのは、コーヘンやカッシーラーを擁するマールブルク学派の重要性にもかかわらず、やはり近代日本にとってはヴィンデルバントやリッカート(リッケルト)のバーデン学派が大きな意味をもっていたことである。そう思いながら読んだためか、本書の諸章のなかでも、新カント派の受容の分析という観点にかぎっていえば、西田幾多郎のリッカート価値哲学の受容を見いだす板橋勇仁氏の論文や、退屈なリッカートがなぜ大正期にも読まれたのかを解明するクレーマ氏の特別寄稿、価値哲学から南原繁の政治哲学へと論じる川口雄一氏の論文、南原のヴィンデルバント継承を見とどける田渕舜也氏の論文などから学ぶところが多かったように思われる。ただし、これはカント研究者である書評子の見方であって、読者は多彩で充実した諸章とコラムからそれぞれの関心に応じて学ぶところがあるだろう。(執筆=伊藤貴雄・マーギット・ルフィン・辻麻衣子・九鬼一人・大橋容一郎・黒元将利・渡辺和典・下山史隆・庄子綾・加藤泰史・板橋勇仁・杉田孝夫・福谷茂・大木康充・鈴木亮三・宮本勇一・山本恵子・前川健一・久野譲太郎・芝崎厚士・ハンス・マーティン・クレーマ・玉田龍太朗・位田将司・松井慎一郎・川口雄一・田渕舜也・直江清隆・渡辺恭彦・石神豊)(きど・あつし=東北大学教授・哲学)
★いとう・たかお=創価大学教授・哲学・思想史。著書に『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学』『哲学するベートーヴェン』、共編著に『ヒューマニティーズの復興を目指して』、訳書に『ヘッセ魂の手紙』『ゲーテ=シラー往復書簡集』など。一九七三年生。
書籍
| 書籍名 | 新カント派の哲学と近代日本 |
| ISBN13 | 9784885960918 |
| ISBN10 | 4885960916 |
