2026/10/16号 7面

ハンガリー反乱から七〇年の日に寄せて(小島亮)

<「反革命」から「悲劇」を経て、「革命」へ> ――ハンガリー反乱から七〇年の日に寄せて―― 小島 亮  一〇月二三日でもって一九五六年のハンガリー反乱から七〇年、八九年の体制転換から数えても三七年を閲する。旧体制下では「反革命」、体制転換期に「悲劇」と公称された五六年反乱は、八九年以降には「革命」と評価され、同日は「革命記念日」に制定されている。ここで謂う「革命」概念について誤解を解いておこう。これは反乱の渦中で組織された労働者革命評議会などを変革主体と捉え、スターリン体制を超克する「革命」とするニューレフトの認識とは無関係で、むしろアーレントの『革命について』の評価に近似するだろう。アーレントは革命の本質を「古い時代に回転して戻る」、つまり「維新」と規定し、アメリカ独立革命を「古代の自由」を擬制とする「回復による創設」と捉えた。これはフランス革命タイプの「被抑圧者の反乱」とは異なり、「一般意志」を旗幟に掲げたテロル独裁を結果しなかった。この認識を踏まえてアーレントはハンガリー五六年反乱をアメリカ革命の唯一の後裔(執筆当時の六二年における)と位置づけたのであった。ただし今日から見るとアーレントは資料不足による過剰評価をしたとの感を否めない。そもそも各地に簇生した革命評議会は「災害ユートピア」(ソルニット)に近く、総体として反乱には旧スターリン時代(ラーコシ政権)の暴政拒否以上の政治的統一性を見出せない。八九年以降の東欧・旧ソ連と同じくパンドラの匣から飛び出した「復初」=「維新」には麒麟や鳳凰の姿をした魑魅魍魎も混じっていた。ハンガリー現代史において「維新」の理念はダモクレスの剣に他ならず、第一次大戦の戦後処理であった一九二〇年のトリアノン条約以前への「復初」、つまり旧領土へのレコンキスタを希求しかねない。実際に第二次大戦中にナチスに加勢されたハンガリーは一部の失地回復に成功し(三八、四〇年のウィーン裁定)、五六年反乱に驚愕しソ連軍による鎮圧を歓迎したのは「昨日の悪夢」を危惧する隣人や各地のユダヤ人たちであったに相違ない。同時発生したスエズ危機への対応に手一杯だった欧米にソ連への掣肘を期待したナジ首相のワルシャワ条約脱退宣言も政治的には無垢であったし、(「双子の危機」への米ソ相互不干渉密約説は古くから存在し、近年Alex von Tunzelmann, Blood and Sand: Suez, Hungary, and Eisenhower's Campaign for Peace,2016 でも再認識された)、ビボーを代表とする穏健改革派を良心的抵抗線とするも共産党改革派に国民は合意していたわけではない。    *  さて古稀の星霜を前半はカーダール、後半はオルバーンの興亡史と括っても差し支えあるまい。楚水蜀山を呈するごとき二人には意外な共通点も多く、歴史過程の詳細をパスすると次のような指摘も可能となる。まず両者ともに国家的分裂と窮乏の廃墟から立ち上がり、強いリーダーシップをもって秩序を再建して異例の長期政権を維持した点である。カーダールはソ連を後ろ盾にして傀儡を演じながらも、六〇年代に入ると『マルコ福音書』さながら「敵でないものは味方」のレトリックを用いて国民再統合に着手し、六四年にはカトリックとの和解も成就する。カーダールはソ連の「子飼い」のように見られがちだが、元来はモスクワ派エリート党官僚のナジよりも立場の危うい「民族派」で、ラーコシ時代には入獄経験さえ持ち奇跡的に粛清されなかった人物だった。カーダールは一党独裁を堅持しつつも次第にデ・ファクトの多元化に成功し、七〇年代には自由選挙でも勝利すると言われた。オルバーンは強権的ナショナリストを標榜しながらもロシアや中国への戦略的東方外交を展開し、ユーロ・セントラリズムを貫徹しながらブリュッセルの路線には時として敢然と対峙した。あまり語られざる彼の功績は極右の台頭を巧妙にマネージした「象徴政治」(エデルマン)の手法である。EUに加盟して以降、リバタリアンの進める「ショック・ドクトリン」(クライン)によって特に大平原以東は荒廃し、限界集落化地域にトランシルヴァニアからのロマ人口の大量流入も止まらなかった。こうした状況を背景として極右政党(ヨッビク)は跳梁し、地方選挙に勝ちまくって国政でも第三勢力にまで伸長した。オルバーンは極右のイシューを換骨奪胎して巧妙に取り込み、適度に手懐けて穏健化に成功したのである。ちなみにオルバーン政権を支えた政財界コングロマリットはカーダール時代のノーメンクラトゥーラの後塵を拝し、ともにアイデンティティ政治の地政学化を抑止した「非自由主義的民主主義」(ザガリア)または「暗黒啓蒙」(ヤーヴィン)の相対的成功例であったとも言えなくもない。  一般的に「悲劇の小民族国家」なる紋切り型からハンガリーを理解しがちであるが、旧ハンガリー王国は中欧最大規模の帝国秩序を維持する老舗であった。ポーランドのように亡国の憂き目には遭わずハプスブルク時代にもオーストリアに併合されたわけでもない。独自王権は一応維持した上、一九世紀末にはオーストリアと対等の地位を回復、経済的にはブダペストはウィーンを凌駕するに至った。しかし二重君主国の成功は皮肉にも第一次大戦敗戦後の悲劇をもたらした。ハンガリーは旧領土の七〇パーセント弱を割譲された結果、経済的血脈たる鉄道など交通網も分断、ドイツ・オーストリアの資本も没収され、ハンガリー人の三分の一は近隣国家において少数民族と化した。ケインズ『講和の経済的帰結』に倣うと、「カルタゴの講和」によってハンガリーは国家存続の危機に直面したのであった。「民族自決の主張を無条件に優先してしまい、その主張を敗戦国の犠牲によって実行できるかぎり満足させ、その経済的な帰結をなすがままに放置」(カー『平和の条件』)された結果である。絶望的な社会情勢の中「ブダペスト市国」化したハンガリーは「小協商」と呼ばれた包囲網の中で生存を余儀なくされる。戦間期の権威主義的独裁を担ったホルティは国際関係の「狐」に徹するも、先述のように一部領土の回復を条件に不本意な対独同盟を余儀なくされ亡命を選んだ。かくてハンガリーは米ソ両軍への枢軸側敵国として第二次大戦は終結し、ポーランドも含め他の東欧諸国と根本的に違ってソ連占領下に厳しい敗戦国処理を行われる。四八年以降はラーコシ政権によるスターリン型独裁の下でGDPの二〜三割に及ぶ対ソ賠償を支払いながら「一国共産主義」モデルを強制されるのである。ところで全否定されたラーコシ時代の戦慄の恐怖政治には予想外の「成果」も生んでいた。新興工業都市と大ブダペストの有機的な交通網創出、社会的には出生率の劇的向上や教育水準の高度化を通じてトリアノン条約以降の版図を「ハンガリー国」化する要因を醸成したのである。突貫的な工業建設に向けた農民収奪も撤回された五〇年代半ばには国民生活も改善し、闇夜の底に一条の光も差し始めていた。この「最良にして最悪」(『二都物語』)の刹那こそソ連のスターリン体制終焉期に重なり、五六年反乱は絶望でなく希望から始まったのである。時あたかもポーランドでは改革派とされていたゴムウカの党第一書記就任も実現し、五六年一〇月二三日、ドナウ右岸のポーランド人・ベム将軍像前で学生たちが連帯を表明した時、「自由と愛」(このペテーフィの詩は八九年の天安門にも掲示された)をプラカードに掲げた平和な集会が対ソ戦争に転じるとは誰も予想していなかった。    *  結果的にはラーコシ時代に暴力的に礎石を置かれた工業とカーダールの修正的農業共同化(六八年以降の経済改革の原型になった)は、ブレジネフ政権のセフ(コメコン)国際分業とマッチし、トッドが『西欧の敗北』で力説するようにハンガリーの「グヤーシュ共産主義」は東欧随一の成功者となった。カーダール時代にソ連型人間も創出されなかったし、知識人多数派は反体制ならぬ準体制派(ゆ党)として若干の時差を伴って西側知性と同時代を生きていた(ルカーチ学派は主として知的孤立ゆえの出国を選んだ)。八九年は「カーダールの子たち」によって仕組まれ、彼らを全否定したオルバーンさえも「東側の一番陽気な兵舎」(ハラスティ)と揶揄されたカーダール時代にエリート大学で学んだ世代に他ならない。カーダール時代の「不足の経済」(コールナイ)も「欲求に対する独裁」(フェヘールら)もハゲタカの舞う寒空の中「飢える自由」よりはマシだったと体制転換後に批判者本人も自覚したのではないか。  カーダールはオルバーン時代に徹底的に神話破壊され、オルバーンにしても旧盟友のマジャルによって悪罵を投げつけられ本年四月に満身創痍ながら潔く政界を去った。だが一八四八年独立革命に戦略的敗北を選んだゲルゲイ将軍の弟子たち(ホルティも含む)の「塗に由らざる所」(孫子)を得た采配は、同時代人には酷評されても後世からは運命の技と見做され続けるだろう。(こじま・りょう=中部大学元教授・社会学者・歴史学者)〔写真も筆者撮影〕