映画時評 6月
伊藤 洋司
一対一・三七の白黒の画面が小さな工場の内部を示す。ヒロインのドニヤが親しい同僚のジョアンナと向かい合って座り、クッキーを袋に入れながら話をする。二人を横から捉える固定ショットの後、カメラがほぼ同軸上に無言のドニヤに寄ると、会話のなかでそこだけ手持ちカメラの撮影になるのが繊細だ。再びカメラが引くと、ジョアンナが後ろを向いて中国系の同僚に声をかけ、ファンというその老婆が会話に加わる。飾り気のないショットの簡潔な連鎖が素晴らしい。この冒頭の場面だけで、ババク・ジャラリの『フォーチュンクッキー』が優れた映画だと分かる。
ドニヤは映画のなかで、工場主で中国系アメリカ人のリッキーやセラピストのアンソニー、同じアパートの住人のサリム、アフガン料理店の店主など、様々な男性との会話を繰り返す。ドニヤを演じるアナイタ・ワリ・ザダの存在感が絶妙なだけでなく、こうした男性たちが皆とてもいい顔つきをしている。セラピストの診療で、不眠症のドニヤは故郷のアフガニスタンの米軍基地で通訳をしていたが、家族を残して単身でアメリカに来たと語り、物語の複雑な社会的背景が示唆される。だが、ドニヤがそうした背景を語りたがらないように、映画の物語もそこに焦点を当てない。重要なのは何より二人の絶妙なやり取りであり、セラピストの表情や仕草の魅力である。二人の対話は主に人物を正面から捉えるバストショットの切り返しで示され、重要な会話の時のみ、カメラが二人を斜めから捉える。また、アフガン料理店の店主との会話では、二人は向かい合わせにならず、正面や真横からのショットが切り返しで繫げられる。さらに、中国系工場主との会話は、工場主の妻が同席する時だけ正面からの切り返しで示され、後はツーショットの長回しで描かれる。こうして人物ごとに様々な文体の変奏が行なわれるが、注目すべきは、その全ての場面における構図の端正さだ。この端正でありながら豊かなショットの数々こそがドニヤと男たちの会話の魅力を十分に引き出している。
それぞれの会話が別々に進行しながらもその内容の影響が重なり合って、ドニヤは遠出をするに至る。この脚本の構成が巧みだ。この外出でどんなことが起こるかは、ここでは語らない。ただ、彼女が自動車を運転して未知の場所に向かうのに、車の走行のショットが最小限に抑えられていることだけ指摘したい。そもそもこの映画では、人物の移動ショットが少ない。出だしでこそドニヤの出勤や帰宅の様子が魅力的に描かれるが、映画はすぐに移動の描写を省略しだし、異なる時空間を直接繫げる簡潔な編集によって一時間半の映画の心地よいリズムが作り出される。しかし、人物の移動の描写がほとんど消えたかのような映画の中盤で、ソニアと工場主の会話の後に突然、風に髪を揺らしながら歩く彼女の後姿のショットが挿入される。歩行する彼女の後姿自体は、出だしでも繰り返し示されていたから、ここでまた挿入されても不自然ではない。だがそれでも、工場からの帰り道とはとても思えない荒涼たる風景のなかを歩むそのショットに、驚かずにはいられない。禁欲的な描写のなかに突如挿入されるこのショットに、『フォーチュンクッキー』という偉大な映画の秘密が隠されているのだろうか。
今月は他に、『雪解けのあと』『舟に乗って逝く』などが面白かった。また未公開だが、ババク・ジャラリの『ラジオの夢』も素晴らしかった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)