滅びゆく惑星で 第15回
増田俊也
時代に適応しなければという言葉を、ここ数年、あちこちで聞く。生成AIが来た、人口が減る、業界が消える。だから適応せよ、と。しかしこれは生物学的に誤っている。
進化生物学でいう適応は、個体が意志によって行うものではない。ダーウィンが言ったのは、そういうことだ
ある個体が努力して環境に合わせたのではない。たまたま毛の長い個体がいて、たまたま寒くなり、その個体の子孫が残った。それが繰り返されてその個体群全体が変化していった。当の個体が寒さに合わせようとして遺伝的に毛を長くしたわけではない。適応したかったわけでも、適応しようとしたわけでもない。ただ生まれつきそうだっただけである。適応は、生き残った側から振り返って語られる結果の名であって、生きている最中の個人が採用できる方針ではない。
にもかかわらず、この語は自己啓発の語彙として流通している。適応できる者が生き残る、と。これは順序が逆になっている。生き残った者を後から適応と呼んでいるだけのものを、生き残るための方法として売っている。詐術と言っていい。 同じことが様々な仕事にもある。たとえば書く仕事にもある。井上靖は『北の海』を六十代半ばで書いた。旧制中学の柔道に明け暮れた自分の青年期を、半世紀を隔てて書いたのである。当時の文壇の関心がどこにあったかを考えれば、あれほど時流と無縁な題材もない。だが残ったのはあの一冊のほうだった。時代に合わせて主題を選び直す人間を、私は何人も見てきた。彼らはいつも半歩遅れて到着した。合わせようとする者は、合わせる先が定まるのを待たねばならないからである。合わせ続けた末に、何も残らなかった。
群として見れば、書き手のうち何割かは滅びる。それは統計の話であり、避けようがない。だが自分がその何割かに入るかどうかを、個人が努力で決めることはできない。できるのは、自分がどういう種類の生物であるかを見誤らないことだけだ。走るのが速いのか、遅いが息が続くのか。速い者の真似をした遅い者は、遅いまま息も続かなくなる。適応しなくていい。というより、できない。
適応という言葉が個人に向けられるとき、それはたいてい諦めろという意味で使われている。時代が変わったのだからおまえも変われ、と。だが変われと言っている者も、実は何が生き残るかを知らない。誰も知らない。知っていたら賭けにならない。
であれば、自分の持って生まれたものを、持って生まれた速度で使い切るほかない。それが結果として残るかどうかは、こちらの管轄ではない。
滅びるときは、群ごと滅びる。個体にできるのは、最後まで自分の走り方で走ることだけである。(ますだ・としなり=小説家)
