髙橋 哲氏に聞く<教員の専門性が生かせる働き方へ>『教員の「働き方改革」はなぜ進まないのか』(日本評論社)刊行を機に
今年の六月、「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が改正され、公立学校教員に残業代の代わりに支給される「教職調整額」が、現行の給料月額4%から10%まで段階的に引き上げられることと決まった。しかしこの改正では、給特法が教員の「タダ働き」を可能にする構造が温存されているのみならず、そもそも給特法の改廃論議自体、問題の所在を見誤っているという。
この新給特法を批判すべく、髙橋哲編『教員の「働き方改革」はなぜ進まないのか 教育・教員の特殊性をふまえた改革提言』(日本評論社)が上梓された。編著者で教育法学者の髙橋哲氏にお話を伺い、問題の核心を剔出していただいた。
――まず、給特法問題の概況を教えてください。
髙橋 教員の働き方改革の問題は、教員の労働条件や生活の問題ではなく、教員不足が象徴するように、社会問題として認識されるようになっています。つまり、教師の労働が苛酷だというレベルを超えて、子どもの教育を受ける権利が保障できるのか、学校は持続できるのかといった、公教育そのものが危機に瀕しているという認識が強くなっているのです。
その中で、給特法が問題の俎上に上がったのは確かに重要なことでした。それが今年度、立法政策として審議・成立したことも、一見するとポジティブなことに思われます。しかしながら、今回の立法が「給特法」という法律の問題点を見誤っていること、これもまた非常に顕著でした。この〝見誤り〟の結果、立法政策上も不十分な対策しか打てなかったと評価すべきです。
そもそも問題の焦点は元々、教員の長時間労働の是正にあったはずです。なのに、いつの間にか待遇改善の話にすり替わり、その上この待遇改善すら覚束ない。むしろ本書第一章で明らかにしたように、待遇を引き下げる施策になる可能性すら指摘されます。本来は教員の働き方の全体を見直さなければならない。なのに給特法の改廃のみが取り上げられ、教職調整額を給与月額の何%にすべきか、あるいは「在校等時間」と呼ばれる時間外労働の上限を何時間にすべきか、といった議論に矮小化されてしまった。このことに私は強い危機感を抱いています。
――〝見誤り〟とは具体的にどのようなことなのでしょうか。
髙橋 世間では、給特法は教員の長時間労働を合法化する法律だと見做されていますが、それは誤解です。給特法のもとでも本当は、今現場で行われている無定量な時間外労働は労働基準法に鑑みて違法なのです。それを正当化しているのは、文部科学省の責に帰すべき「所業」に他ならない。これが〝見誤り〟の核心です。
給特法は、超勤手当を支払わない代わりに給料月額4%の教職調整額を支給すると定めた法律です。それゆえ、所謂「定額働かせ放題」法と揶揄されてきました。しかし実は、教員に命じることができる時間外勤務は「超勤四項目」のみとなっています。つまり、①生徒実習に関する業務、②学校行事に関する業務、③職員会議に関する業務、④非常災害等やむを得ない場合に必要な業務です。本来、この四つ以外の業務を、時間外勤務において教員にさせることはできないのです。
この四項目は、1971年給特法制定時の国会審議によると、「教員の時間外勤務は量ではなく内容によって歯止めをかける」という理念のもと定められた項目(当時は教育実習の指導を含んだ五項目)でした。本来は厳密に守られねばならない。
それにもかかわらず、実際の時間外勤務は超勤四項目に当てはまらないものがほとんどです。すなわち、授業準備や生徒・保護者対応といった、教員としての中核的な業務に他なりません。したがって、これをタダ働きにして放置することは労働基準法違反ですし、これを合法化したいなら超勤手当を支払わなければなりません。しかし文科省は、この労働を教員の「自発的行為」だと解釈している。これこそが文科省の「所業」です。自発的行為だから労働時間に当たらない、8時間を超えても問題ない、超勤手当も支払う必要がない、というロジックで運用しているのです。
――給特法の問題は、文科省が教員の労働時間をそれとして認めないという、労働基準法の恣意的な解釈に淵源しているのですね。
髙橋 そうです。後述しますが、労働者の労働時間を一日8時間、週40時間を上限に定めた労働基準法32条は、学校教員にも適用されています。なおかつ、その対象となる「労働時間」の定義は、労基法の監督機関である厚生労働省が定めている。これは最高裁判決をそのまま反映したものです。「労働時間」とは、使用者の指揮命令下にあり、使用者の指示で労働が義務付けられ、あるいは黙示の指示によって労働を「余儀なくされてい」る時間のことです。
これに鑑みれば、授業準備や生徒・保護者対応にかかる時間は、労働を「余儀なくされてい」る時間に他ならない。ところが文科省は、上のような仕事や強制的な部活指導を労働時間と見做さないできました。
――どうしてこれが野放しにされてきたのでしょうか。
髙橋 一つは財源の問題です。超勤手当を支払う財源がない。もう一つは、文科省の解釈によって労働基準法違反を放置してきた事実を認めたくないからだと思われます。
これまで、教員の超勤手当を求める裁判は敗訴が続いてきました。しかしそれらは労働基準法37条、超勤手当の支給義務が争点となっていた。これは給特法において明確に適用除外されているので、「訴えの利益なし」とされてしまいます。そんな中、2018年より行われた埼玉超勤訴訟では、初めて労基法32条違反をめぐって争われました。そして、裁判自体は原告の敗訴に終わったものの、これまで「自発的行為」と見做されてきた時間外勤務の相当数が、労働時間として認定されたのです。司法の判断はここまで来ています。
また、今回の新給特法の国会審議では、れいわ新選組の大石あき子衆議院議員による追及がなされました。4月10日、大石議員は文科相・厚労相を問い質し、「超勤四項目以外の在校等時間が労働時間に該当するか否かにつきましては、個別具体的に判断される」という回答を得たのです。加えて同23日、厚労省の官僚からも、労働基準法32条における「労働時間」の定義は公立学校教員にも適用される、という答弁を引き出しています。
そうであるからには、裁判の中で個々の事例を精査し、労働時間と認められるかどうか判断してもらうことが必要になってくる。学校の先生たちは、文科省から挑戦状を突き付けられた状態にあると私は思います。
――ここで本書の議論をまとめてみます。教員の働き方改革における問題は次の四点です。①労働時間の管理が適切になされていないこと、②時間外労働への報酬が不十分であること、③人員及び財源の不足、④労働者団体の弱さ。これらに対して、本書は終章において提言を発しています。そのポイントはどこにあるのでしょうか。
髙橋 この四つのまとめで言うと、①労働時間管理を、教員という仕事の専門性を生かす形で行う必要があるという点ですね。そのために考えねばならないことが三つあります。
一つは、教員の授業準備や研修、生徒・保護者対応といった専門的な業務の時間(専門的裁量時間)を、正規の勤務時間内に正当に位置付けることです。日本では、授業以外の時間がすべて行政業務や部活動、校長などに命じられた業務に費やされ、専門的な業務はそれらが済んだ後に「自発的行為」として行われているのが現状です。しかし諸外国を見ると、後者の業務こそが教員の仕事の根幹だという理解が共有されています。専門的な裁量時間を正規の勤務時間内に確保すること。そのための制度設計をしなければ、教員の忙しさは変わらないでしょう。
二つ目は授業コマ数制限です。際限なく担当授業数が増やされると、適切な人員配置がなされず超過労働も是正されません。ただし授業コマ数制限単体では、空きコマに雑多な業務を入れられてしまう危険がある。それを食い止めるためにも、一つ目の専門的裁量時間の確保が必要となります。
そして三つ目に、正規の勤務時間自体の短縮です。これは、拘束時間の短縮によって教員の生活時間を確保することが目的です。なぜ必要なのか。一点目に、授業準備が教師自身の自己啓発と密接に連関していることによります。社会や文化、科学技術など、教養を深める自由な時間があることで、授業の内容もまた豊かなものになるのです。しかしこれのみでは、一般の会社員の自己啓発がキャリアアップに繫がりうることとあまり変わりません。
重要なのは二点目、教員の自己啓発の利益がもたらされるのは児童生徒だという事実です。私企業の勤め人が自己啓発をする場合、その利益を享受するのはあくまで私企業、あるいは個人に過ぎません。それに比して教員の場合、授業の質の向上は子どもの受ける教育の質の向上に還元される。そのため、教員の生活時間の確保は、他の職業に比して公共性が高いと言うべきなのです。
――逆に、批判が想定されるのはどの点でしょうか。
髙橋 一つは、具体的な数値が十分に提示できていなかったり、エビデンスベースのものにすることができなかったりした点です。これは、質的調査と量的調査を重ねる中で考えていく必要があるでしょう。
もう一つは、本書自体も現場の声を拾うことができていない点です。教員の働き方をめぐる争点の一つが、労働条件を決める政策過程に当事者が参与できていないことでした。教員の労働者団体が団体交渉等を行い、当事者の納得と合意を得ることが政策決定には不可欠です。この要素が決定的に欠けていることを批判する本書にも、返す刀で同様の批判が妥当するかと思います。
――教員の労働者団体の代表と言えるのが日教組(日本教職員組合)だと思います。しかし本書はこの団体への言及が少なく、第五章で集中的に触れられるのみです。
髙橋 確かにその通りです。第五章では、70年代の給特法制定における日教組の役割が取り沙汰されました。翻って近年、日教組は目立った活躍が見られない。その理由の一つは、日本政府が長年、教員組合を排除する政策を取ってきたことです。今なお戦後左翼批判と軌を一にしたバッシングは続いていますが、もはや日教組の組織率は三割を切っています。ここまで弱体化した組織を叩き続けるのは、イデオロギーの発露でしかありません。
他方、日教組の対応自体にも疑問が残ります。給特法の廃止に焦点を絞った議論を展開してしまったからです。結局、実際の政策決定にもあまりコミットできていないからこそ、本書での日教組への言及は自然少なくなりました。
加えて私は、今や全国組合が労働運動の主役となる時代は終わったのではないかと考えています。むしろ、各地域の教員組合が、それぞれの地域の教育行政と政策形成にコミットする時代になった。都道府県レベルでの団体交渉を認めることが必要だ、という主張も本書の重要な訴えの一つです。国は地方に決定を委ねつつ、財源はきちんと保障する。これが必要なのです。そのため、日教組は本書であまり前面に出てきません。
――第四章では、予算編成の決定権が、教育の優先度を低く見積もる官邸に握られていることが問題だと指摘されます。これは非常に説得力がある一方で、では果たして財源はあるのか、という問題については疑問が残ります。
髙橋 この問題は、予算編成においてエビデンスが強く求められる分野とそうではない分野の、コントラストが強すぎることに急所が認められるでしょう。例えば防衛費は、確たる根拠なく、政治判断で予算が計上されます。昨今話題の、現金給付額を何万円にするかという議論もそうです。しかし教育ばかりが、明確な費用対効果を厳しく要求される。この予算決定構造を問い直さないと、いつまでも教育に予算が付きません。
更に言うなら、教育は憲法に書かれた個別の人権条項を持つ領域です。それなのに、なぜ憲法に何ら規定のない防衛費の方が優先されているのか。教育を受ける権利が財政によって規定されること自体がおかしなことだと考えるべきです。権利の内容を明確にしたうえで、そこから財政量を見積もるという順番こそ、本来必要な政策決定過程なのだと思います。
――本書のキーワードの一つが「管理」です。ここには二つの管理があると思います。一つは政府が教員の職務を統制するという意味、今一つは教員の労働時間を把握するという意味です。前者は忌まわしく、後者は歓迎すべきだと思われるのですが、日本では両者が混同されがちです。なぜなのでしょうか。
髙橋 前者は教育内容の管理として理解されます。教員の教育活動自体への介入ですね。対して後者は教育条件の管理です。本来行政は後者、労働時間の管理を通じた教育条件の管理を行わなければなりません。それによって適正な人員配置をするわけです。
しかし、現今の教員の働き方改革においては前者、教育内容の管理がなされています。何が子どものために必要な活動かという判断が、校長や政府・文科省のものになっている。このロジックで労働時間管理をしようとするから、時短ハラスメントが起こったり、授業準備など本来大事にされるべき業務が削られたりしてしまうのです。
この問題の核心は、学校における働き方改革がそもそも、教師の労働条件を改善するために推進されてはいないということにこそあります。民間労働者の働き方改革は、高橋まつりさん事件に端を発する過労自死の問題を受けた動きです。そこでは、労働時間の制限や賃金の増額によって、労働者の生活を守ることが目指されています。
しかし、学校においては異なります。教員の待遇改善は、学習指導要領実施の手段に過ぎない。これは新給特法に明言されています。先に整理していただいた二つの管理は、文科省にとって同一のものなのです。教員不足や長時間労働という政治問題を巧みに利用して、文科省は焼け太りをすべく、管理統制機構を強化する方向に向かったと言えます。実際、文科省の施策への貢献度に応じてお金を払う仕組みが既に構築されています。具体的には、担任やIT教員、道徳担当教員への手当などです。
――なぜ中央は学習指導要領にこだわり、教育内容を統制したがるのでしょうか。
髙橋 それを理解するには、1950年代からの流れを見る必要があります。戦後すぐの教育は非常に民主的で、自由なものでした。
しかし55年体制の構築に伴い、左派イデオロギーへの危機感が醸成されます。日教組教員に教育を握らせてはまずい、「洗脳」教育を防ぐため、学校現場に教育内容の決定権を与えてはならない、と政府は考えたわけです。文部省(現・文部科学省)自身も、自分たちの省是は日教組対策だと考えてきた。それによって保守層政治家に自分たちの存在意義を訴え、文教予算を獲得してきたからです。学習指導要領はそうした働きかけの要であり、保守層が求める教育内容を敷くための欠くべからざる手段なのです。
日本で学習指導要領は法規として見做され、それに背いた場合は処分の対象になると規定されています。それに対してアメリカでは、確かに州ごとに策定されるカリキュラム・スタンダードは存在し、これをもとに各自治体や学校でのカリキュラムが組まれます。しかし、それはあくまで基準に過ぎません。具体的な教育実践は学校現場に任せられ、学校ごとに様々な実践が多様に実現しています。
翻って日本でも、戦後すぐの学習指導要領には、これは参考基準であり、「一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたのではない」と明記されていました。こうした基準ならばよいのです。基準それ自体は重要なものですから。
しかし、それが強制力を伴うのが問題です。1958年以降、学習指導要領は法規だとされ、従わない場合は懲戒処分の対象になりうるとされてきました。それが今なお続いている。文部官僚の回想録を開くと、この措置は当時非常に強かった日教組への対抗策に過ぎず、教育課程の法規化は個人としては反対だった、などと書かれています。もう21世紀なのだから、当時の官僚ですら疑問視していた体制は見直されるべきです。それを解放しないと、教員の働き方はいつまでも改善されないでしょう。
――この状況を打開する希望はあるのでしょうか。
髙橋 立法府も行政府も、当事者の声を聞く構造を備えていません。しかし司法府、つまり裁判には希望が見えます。先述の埼玉超勤訴訟で原告は、労働基準法32条違反を追及しました。これをゆくゆくは、子どもの教育を受ける権利の保障という憲法訴訟として展開していく必要がある。教員不足や学校の持続可能性の危機は、労基法の問題である以上に、必要な財政措置を行わない立法不作為をめぐる憲法問題なのだ、と突き付けるのです。
これは決して絵空事ではありません。アメリカにおける教育財政訴訟がモデルになり得るからです。アメリカでは実際、州政府が十分な教育への財政支出をしていないことに対し、憲法違反を訴えた原告が勝訴、教育予算支給の命令を引き出した事例が存在します。政策上の予算の優先順位を覆すために、司法による政策への介入が鍵になるのです。そうした訴訟運動を、10年20年かけてやっていきたいと思っています。 (おわり)
★たかはし・さとし=大阪大学大学院准教授・コロンビア大学客員研究員・教育法・教育政策。著書に『聖職と労働のあいだ』『現代米国の教員団体と教育労働法制改革』、共著に『教員の長時間勤務問題をどうする?』『コロナ禍に世界の学校はどう向き合ったのか』、共訳書に『アメリカ教育改革のポリティクス』など。一九七八年生。
書籍
| 書籍名 | 教員の「働き方改革」はなぜ進まないのか |
| ISBN13 | 9784535528734 |
| ISBN10 | 453552873X |
