<二十世紀の知を明日に繫ぐ>
鼎談=松浦寿輝×堀千晶×中村隆之
シリーズ「知の革命家たち」(水声社)刊行に先だって
水声社から、シリーズ「知の革命家たち」の刊行が開始される。第一回配本は一月下旬、第二回配本は二月中旬予定で、総計二五〇人にのぼる人物について刊行されていく。本シリーズに推薦文を寄せている松浦寿輝氏と、第一回配本で『ジル・ドゥルーズ』が刊行となる堀千晶氏、第二回配本の『エドゥアール・グリッサン』を執筆した中村隆之氏に、鼎談をお願いした。(編集部)
松浦 このたび水声社から「知の革命家たち」という叢書の刊行が開始されることになりました。「二十世紀欧米の文学・芸術・人文科学の諸分野において革新的な役割を果たした人々」についてのモノグラフのシリーズという企画です。これから何年かかけて二〇〇冊から二五〇冊を刊行しようという壮大な企画ですが、ポイントの一つは単に文学の叢書、あるいは人文科学の叢書ではなく、文学、芸術、思想、哲学を見渡すことができるものとして構想されていることです。第一回配本のタイトルだけ見ても、哲学者、音楽家、小説家、社会学者、詩人というバラエティに富んだ、それぞれの分野である種の革命を起こした人物が取り上げられていきます。有意義で生産的な企画だと感じています。
僕は先立って、沼野充義さん、田中純さんと『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』という連作鼎談を本として刊行しました。二十世紀とは諸分野で革命的な出来事が次々に起き、しかもそれらが有機的に連動し、一種の知的なパラダイム変容として立ち上がってくる、そういう時代だったと思っています。
一冊ごとの本はわりと小さい規模で、各一七〇ページ前後でしょうか。これは新書の形態に近いですが、堀さんや中村さんの本を拝見した印象では、単なるハンディな入門書を超えた、野心が漲っていると思いました。
まずそれぞれに、この本をお書きになった意図や、叢書についてのお考えなどを伺えますか。
堀 「知の革命家たち」という企画に、背中を押してもらったように感じます。企画の規模に煽られ先導されるようにして、よこしまなことがしたくなる(笑)。
一人の著作家の全体像を描くのがこのシリーズのコンセプトですが、私はドゥルーズの映画論である『シネマ』にフォーカスを当てました。思い切って踏み外す形を取ってみたのです。
その理由として、ドゥルーズの著作は、それぞれ独立性が強く、一冊ずつ全て紹介していくと、私の力量では、内容が薄くなってしまう懸念がありました。そこで『シネマ』に絞った上で、その中に色々な要素を入れる。そうすることで、彼の美学のコアの部分を描けないかと考えました。また、『シネマ』にはたくさんの映画作家が取り上げられているので、この本を集中的に論じながら、二十世紀の様々な時期と地域へと分散し、その周囲に渦巻く問題を扱えるだろうと。
書く上で意識したのは、ドゥルーズの「批評」の方法論を摘出していくことです。ドゥルーズは〈美学と政治〉〈身体的なものと形而上学的なもの〉〈技術と精神〉などを組み合わせつつ、それらが触れ合う界面として、作品批評を構築していきます。そしてその中に歴史的文脈や社会状況を凝縮させてゆくのです。
かつて「批評の時代」と呼びうる時代がありました。以前から批評の力が弱まっていると指摘され続けていますが、ドゥルーズの方法論を見ることで、批評の機動性を、現代の観点から再点検することも狙いの一つでした。それを通して、他の批評家との連繫も、おのずと浮かび上がるのではないかと思っています。
中村 グリッサンに関しては二〇一六年に既に本を出しています。堀さんが『ドゥルーズ 思考の生態学』のスピンオフの形で『シネマ』に特化して書かれたのを見て、このやり方があったかと思ったのですが、私も堀さんと同じく、グリッサンの文体や方法を言語化することを、今回の本では試みました。
堀さんと私をごく大雑把に同世代と括るとすれば、松浦さんは私たちの先生の代に当たりますが、二〇〇〇年代に大学院生として過ごしていたときの、東大駒場界隈の人文知の盛り上がりは印象的です。私たちの世代は研究者志望が多く、かつ高学歴ワーキングプアという言葉も流行った時代でした。私たちにとって輝かしい時代とは、二十世紀の人文学であり、その魅力をそのまま体現したのは、松浦さんたちの世代ではないかと思うんです。私たちの後の時代に、読者が続いているのかわからない。知の風景が大きく変わってしまっているのではないかという懸念があります。
そうした中で、二十世紀の思想を「知の革命家たち」という視点から振り返る企画は意味のあるものですし、未来を占うようなものでもあると感じています。
堀 編集部からの指定は、冒頭にバイオグラフィーを入れてほしいということでした。今後、二〇〇名以上のコンサイスな伝記が書かれていくことで、今まで知られていなかった横の繫がりが見えてくると思います。つまり、この叢書の進展とともに、「知のネットワーク」が形成されるとも言えるのではないかと。
中村さんのゲラを拝読すると、その中でも私のテクストと共通する名前が出てきましたね。
中村 堀さんのテクストとは共鳴し合うものが多々ありました。ドゥルーズがグリッサンと同様に、多元論の哲学を展開したジャン・ヴァールに影響を受けていたことに驚きましたし、同じページにガストン・バシュラールの名前も出てきました。グリッサンは、ドゥルーズともどこかですれ違ったことがあるのではないでしょうか。
松浦 一七〇ページ前後の中にバイオグラフィーを入れるとなると、手足を縛られたような状態で、どのように個性を打ち出すかに悩まれたのではないでしょうか。
堀さんは『シネマ』にフォーカスを絞り、一点突破、全面展開の方法をとった。『シネマ』だけでも大変な本ですが、そこを入口として、映画作家の多様性から批評の問題に繋げてゆくというアプローチによって、「入門書」の役割を超えた広い展望が開かれている。
そして中村さんの場合は、「詩学思想」という言葉をキーワードにして、グリッサンの詩、小説、哲学、思想という多様な仕事を横断してみせたわけですよね。その叙述のスタイルに目配りしながら、彼の「詩学思想」を取り出そうという。グリッサンの巨大な世界を、短い紙幅の中で再編成するという、ある種暴力的な簡略化もありながら、エクリチュールの疾走を見せている。
二冊ともにとても面白かったです。
中村 私にとって作家の生と作品は切り離すことができないものなので、バイオグラフィーを切り離した上で評論するというのは、とても難しく感じられました。自分のナラティブは入れず客観的に書くようにしたのですが、その辺り堀さんはいかがでしたか。
堀 ドゥルーズは、人生にそれほど波がないんです。体が強くなかったこともあって、あまり移動もせず、規則的に暮していました。そのため私は生涯を描きつつ、まずは思想の特徴を大づかみに描いてしまおうと考えました。それに加えて、かなり選択的に視点を設けています。今回は『シネマ』に焦点を当てているので、映画論的な観点も強く出しています。
中村さんと同じく、私も生涯と作品は交差するものだと思っていて、中でも一九六九年のガタリとの出会い以降の著作の変化に着目しています。「二人で書くこと」「監獄」「パレスチナ」という三点を大きなファクターとして捉えました。「知覚しえないもの」「耐え難いもの」を見ること、そしてマイノリティへの関心が大きく浮上し、思想と政治が接触しあう局面が色濃く表れるようになる。
松浦 有意義な出版企画であることは間違いないのですが、「革命」という言葉は少々古びた響きがありますね。また「欧米」という限定にも、特に中村さんなどは何か物申したいところがあるのではないでしょうか。
中村 「知の革命家たち」という言葉自体、定型句的なものになってしまっている気はしますね。また人選を見ると、圧倒的に男性が多く取り上げられているのは気になりました。「欧米」という限定は受け入れるとしても、たとえば東欧の人があまり取り上げられていない。あるいはマグレブの作家はいるのかどうか。ことさらに多様性を可視化する必要はないですが、見方によっては偏りがあるように思えなくもない人選です。
堀 たとえば音楽家のセレクトはいかがですか。
松浦 第一回配本から、シュトックハウゼンが入っていますね。
堀 シュトックハウゼン、とても楽しみです。
同時にたとえば、米国のスライ&ザ・ファミリー・ストーンやジェームス・ブラウンなどが入る可能性はないのかな、などと夢想してしまいます。いわゆる西洋の作曲家でない人が、叢書に入ってもいいように思うのです。
叢書において誰が取り上げられるのか、ということじたいが、時代によって変化することを考えると、対象のセレクトそのものが知の変遷の表象になりえます。それはそもそも何を「知」と認め、何を「革命」と見なすのかにも通じています。
松浦 たとえばビートルズだって革命的な存在だったし、マイルス・デイヴィスはどうなのか。
中村 「知の革命家たち」というネーミングの中に、いろいろ入れ込める可能性があるわけですよね。名前のよく知られているプルーストとかバルトとかフロイトなどがいると同時に、あまり知られていない、知るべき作家が提示されるとしたら、それはなお企画として重要なものになると思います。女性もシモーヌ・ヴェイユは入ってますが、ボーヴォワールは見当たらない。シクスーなども入るといいんですが。
堀 セレクトそのものが、企画の醍醐味になりますよね。私もフェミニストたちを是非読みたいです。画家アグネス・マーティンが入っているのは、嬉しい驚きでした。ブライアン・イーノも嬉しい。
中村 音楽家サン・ラが入ると面白いです。変わった人なので論じがいがあると思います。
松浦 第三回配本以降は、揺れながら進行していくことと思うので、編集部にさらに検討いただきたいところです。
お二人の本を続けて読むと、ガタリとの交流がどちらにも出てくるのが面白かった。グリッサンにもガタリと本を書く企画があったんですね。
中村 ある時期まで、家族ぐるみで食事をしたり、親しく付き合っていたようなのですが、グリッサンが仕事の関係でパリから去ることになり、立ち消えになってしまったようです。
松浦 ドゥルーズ=ガタリが提唱した「リゾーム」概念を、後年、グリッサンも借りて思考している。お二人の本を読むことで、ほぼ同世代の、一方は哲学者、他方はカリブの思想家・作家・詩人という二人の世界がヴィヴィッドに共鳴し合うさまが浮かび上がるのは、非常に興味深かった。
ただ、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』には、グリッサンへの言及はないのですね。「マイナー文学」という概念との関わりで、カリブ世界の問題が扱われても不思議ではないし、グリッサンのエクリチュールがドゥルーズの興味を惹かないはずはないと思うんだけど。
ドゥルーズは、二〇世紀アメリカの最大の作家と言ってもいいフォークナーについてもなぜか触れていないでしょう。フィッツジェラルドやホーソーンなど東海岸の作家については熱心に語っているのに。何か不思議なセレクトが働いているような気がします。
堀 フォークナーについて全く言及がないわけではないのですが、確かにヘンリー・ミラーやフィッツジェラルド、ヴァージニア・ウルフなど、論じる対象のセレクトを綿密に行う人です。どのタイミングで誰に言及するのかということを、考え抜いています。
ドゥルーズが文学論を書いた作家でいうと、マゾッホの出身地は現在のウクライナ、カフカはチェコですし、西ヨーロッパから少し外れたところにいます。プルーストも含めて、マイノリティの作家を選んでいたように思えます。ただグリッサンについては、単純に読んでいなかった可能性もあるので、本当のところは分かりません。
中村 昨今はアメリカのリベラリズムを基調としたアイデンティティポリティクスが働く中で、それぞれの属性を可視化していく傾向が強くなっています。これまでは単に「二十世紀の思想家」として語られてきたものが、ジェンダーはどうか、有色かそうではないかなどの視点が加わり、そのバランスについての問題意識がもたれるようになっています。逆に二十世紀当時の思想家には現在「無知学」という言葉で示されるような、自分たちの関心に入ってこないものと出会い損ねるケースも多かったのではないかと思います。
ミシェル・レリスをはじめ、グリッサンを語る上で重要な、二十世紀のよく知られた人物は幾人かいるわけですが、グリッサンはカリブ出身の作家として、それとは全く別のネットワークももっていました。それは「知の革命家たち」シリーズの中にはあまり出てこないような、アフリカ系の書き手たちです。
松浦 僕はアンドレ・ブルトン研究から出発した人間なんで、エメ・セゼールにはずっと親しんできたんです。ブルトンは大変な知識人でしたが、同時に正統派の「教養」から大胆にはみ出すところがあった。もともと医学生だったので医学や生理学にも詳しく、そこからフロイトの仕事へと興味が及んでいく。またプラトン以来の西欧形而上学の系譜からは離れたいという意識が強く、第二次世界大戦中の亡命はその格好の機会になります。アメリカへの船旅の途次、マルティニック島に立ち寄ったときにセゼールとの劇的な出会いがあり、彼の作品を熱烈に称揚するようになる。
グリッサンがセゼールの教えを受けつつ、しかしやがて師を批判して新しい世界を切り拓いていった過程は、中村さんの訳書や著書を通じて知ることができました。
中村 マルティニックという島にセゼールがいたからこそ、後にアルジェリア革命に殉じるフランツ・ファノンが出てきますし、グリッサンも作家として誕生することができた。セゼールの偉大さは強調してもしきれないのですが、だからこそ影響を受けながらも、セゼールとは異なる詩学を追求したいという思いが、グリッサンにはありました。
レリスはまさしくセゼールとグリッサンを繫ぐキーパーソンですが、他方でブルトンがマルティニックに来たとき、グリッサンはまだ無名の高校生でした。ブルトンの姿を見たことは証言として残されていますが、言葉を交わすことはなかった。ドゥルーズにも大きなインパクトを与えたサルトル、そしてブルトンは、当時とりわけ植民地出身の知識人には大きな意味をもつ人物でした。セゼールは、ブルトンとサルトル双方に祝福された詩人だった。グリッサンはその後の世代にあたるので、直接的な関係はなかったものの、意識する書き手ではあったでしょう。ブルトンについての言及はないものの、詩の一節を幾度も引用しています。
松浦 セゼールは、マルティニックをフランスの県の一つとして認知させる、同化政策のために献身的に努力し、成功したわけですが、この「同化」という思想に、グリッサンは批判的な考えをもったわけですね。
中村 セゼール自身も、「ネグリチュード」という言葉でもって、アフリカ系文化の西欧文化からの異化を思想的に表明したのですが、他方で政治家としてのセゼールは、貧しいマルティニックの住民たちの生活の向上が第一だと考え、県への昇格を求めました。一八四八年に奴隷制が廃止となり、その立役者であるフランスの政治家ヴィクトル・シェルシェールが牽引する形で、左派運動が本土と植民地の経済格差を是正していく方向に進みますが、その最も成功した事例がセゼールでした。植民地から県への昇格要求は、それ以前にもカリブ海の左派系の政治家たちが訴えてきましたが、なかなか取り合われず、セゼールの時代に成し遂げられたということです。
ところが制度的な同化は、結果的に文化的な同化でもあったことが明らかになります。共和主義的な思想がマルティニックの人々の中にも、進歩的な考え方として受け入れられ、文化面でのフランス化が進行する。セゼールが唱えたネグリチュードというアフリカ回帰思想はマルティニックでは浸透しませんでした。
一方グリッサンは、カリブ海で生まれた「私たちとは誰か」という問いを大事にしました。奴隷として強制的に連れてこられ、アフリカという起源から切り離された自分たちの、集合的記憶や歴史意識を文学者として叙事詩のように作り上げていく必要があると考えたんです。それはヘーゲル的意味での叙事詩の不可能性からはじまるものでした。不可視化された記憶を「関係」の視点から掘り起こす――文学者の高次の使命として「来たるべき共同体を形成する」ための詩を作ることを、グリッサンは生涯かけて行ったのだと捉えています。
堀 お話を伺っていて誰に注目するか、誰が優先されるのかが問題として大きいように感じました。つまり日本においてはセゼールが取り上げられた一方で、グリッサンは取り上げられてこなかった。著作の翻訳が進むのは、二〇〇〇年刊行の『〈関係〉の詩学』の時期以降ですよね。その前後に、世界認識や歴史の見方が書き換えられた兆しとも取れます。二十世紀のどの場面で、知の変動が起こったのかが、受容史も含めて重要だと、あらためて思います。
グリッサンについて、歴史を語ることを通しての言語変容について書かれていたことが印象的でした。どのように歴史を書くか、どういう言語を使って書くのか。旧来の語り方では表象しえないのであれば、言語を新たに構築しながらでなければ語れない。そういう歴史とグリッサンは対峙したわけですね。
実はドゥルーズは、「歴史」や「記憶」に、それほど積極的な意味を与えてこなかった人です。ただ、時代の動きと関連しながら、自分たちの歴史や記憶を語りなおし、つくりなおしてゆく批判的「作話行為」を評価するようになります。「マイナー文学論」も、言語をめぐる強烈な問いかけでした。
松浦 『千のプラトー』も章ごとに日付が付されているわけですから、一種の歴史書とも言えますね。ガタリと共闘するようになって以降の著作には、歴史的な視線が入って来ると言えるのではないでしょうか。ただし当然それは、クロノロジーの秩序が錯乱した歴史になってゆくわけだけど。
堀 そうだと思います。歴史叙述の仕方も、思想家によって全然違いますよね。フーコーのように時代を幾つもの層に割っていくような歴史記述もあります。『千のプラトー』では、国があり、遊牧社会があり、それが戦争機械として国とは別に機能して、さらに別に都市もあるという具合に、様々な社会形態を取り出した上で、それらが現在において互いにどのように切り結ぶのかを考えています。いわゆる大きな物語としての〈歴史〉とも違う方法論です。
まさにガタリと「共闘」しながら、〈歴史〉を撹乱させる様々な線を取り出す作業を行っていました。彼らは、現在性のアルケオロジーを素描しようとしていたと思います。
中村 実はグリッサンの面白さも、今回言葉にして初めて分かったところがありました。彼は詩人として出発し、小説も思想も横断的に書いてきた人ですが、最後に残ったのが評論で、それも何を書いているのかよくわからないような佇まいなんです。グリッサンがなぜこのような書き方をするのか改めて考えてみたときに、これは彼の詩学の方法論と切り離して考えるべきではないと。たとえば〈関係〉というキーワードがありますが、これに近い言葉が繰り返され、言い換えられているに過ぎないと気づいたときに、ほかの部分でも、彼の中で強調したいことを少しずつずらして表現しているのだと分かってきました。
松浦 〈多様なるもの〉〈全―世界〉〈クレオール化〉なども少しずつずらした表現なんですね。
中村 そうです。それを学問的な手続きで分析しようとすると、訳が分からなくなってしまう。
中村 堀さんの書いたバイオグラフィーでは、ガタリと出会う六九年あたりから、ドゥルーズの表現が変わっていくのが印象的でした。たとえばドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、哲学者の思想書としては破格な作品ですよね。堀さんはドゥルージアンとして、ドゥルーズ的な思考と文体で、『アンチ・オイディプス』に連なるような書き方の展開を、試みるようなことは考えていないのでしょうか。
堀 『アンチ・オイディプス』のように書くのは、私には無理です(笑)。サイケデリックな叙述であると同時に、非常に論理的に書かれている。模倣してもとてもあの強度には達しないでしょう。スピノザ主義によって全体が貫かれているとも言えるし、マルクス主義の変形版でもあり、反精神医学の文脈でも読めるというように、非常に多層的でありつつ、同時に全てに筋が通っています。
松浦 錯乱的でありつつ論理的という、異常なテクストですよね。インタビュー映像の「アベセデール」では、ドゥルーズがひっきりなしにタバコを吸いながら、無責任な放言を撒き散らすように喋り続けるさまを見ることができます。先ほどМ・デイヴィスの名前が出ましたが、ドゥルーズの発想の展開の仕方は、ジャズのインプロビゼーションのようなところがあったんじゃないか。
外部からの刺激を受けて、自分の意識と無意識の境目あたりから吹き出してくる言葉を連ねていく。そんな自動記述にも似た作業を、ガタリとの共闘でも実践していたんじゃないか。それをエクリチュールの段階で緻密に細心に書き直し、階層として積み上げ、論理の筋道を通していく。
堀 ドゥルーズの講義は、かなり前から音声データと転記されたテクストが公開されているのですが、それを聞いたり読んだりしていると、ドゥルーズが書物の形態にこだわると同時に、オラリテを、声の響きやリズムを重視していたことが分かります。決めフレーズを転がしながら、思考をどんどん発展させていくことを、講義の中でも行っています。
中村 グリッサンも書いたものだけ読むと、何を言っているのかわからないところがありますが、わりと各所でインタビューに応じていて、オラリテがエクリチュールを補完してくれるようなところがあります。
松浦 グリッサンもオラリテを重要視していたようですね。〈関係〉の詩学では、風景が、書くことと話すことの錯綜として現れてくるものだと。
実は二回ほど、ドゥルーズの講義を聴講したことがあるんです。彼がヴァンサンヌ大学にいた頃のことですが、教室はもう超満員でね。始まってみたら、鳥の鳴き声の話をずうっとしている。鳥がテリトリーを作るときに、どんな鳴き方をするのか、つまり例の「リトルネロ」「領土化」「脱領土化」の問題です。しかしこっちはそもそも「リトルネロ」なんて単語知らないし、わけがわからない。これが哲学の授業なのか、と啞然としました。あの時代ですから教室でタバコをすぱすぱ吸いながら、霊感によって降りてきたものをどんどん言葉にしていくような、なんとも鮮烈なパフォーマンスでした。
堀 とても貴重なお話です。何年頃のことでしょうか。
松浦 僕は七六年から七八年と、八〇年から八一年の二度、パリにいたわけだけど……。
堀 内容からすると、七七、七八年頃でしょうか。その授業は録音が残っていないかもしれません。まとまって残っているのは七九年からで、それ以後の講義は大体内容が分かっているのですが。
松浦 そういう貴重な機会だったのか。そう言えばグリッサンとも、ちょっと接点をもったことがあるんです。中村さんのバイオグラフィーにも出てきますが、九三年に東大駒場で開催したシンポジウムの場でのこと。僕は当時一番若い助教授だったので、会場係その他、下働きをやらされていたんです。グリッサン氏に付き添って発表会場の図書館へ案内したのを覚えています。
中村 錚々たるメンツが集ったシンポジウムですよね。二〇二〇年代に同じことはできそうにありません。知の風景が明らかに変わっていることを感じます。
松浦 ドゥルーズ、デリダ、フーコーなどは、僕の世代にとって、ポスト構造主義のスターたちですが、そこからパラダイムが少しずつずれてきて、カリブのポストコロニアリズムなどに問題が移行してきていますよね。その流れの中でもドゥルーズはしたたかに、流行遅れには決してならず、我々を絶えず刺激し続けています。
二十一世紀の四分の一が過ぎ去ったところで、そうした思考や視点の転換を含めて、二十世紀を振り返ろうとする叢書には、やはり意義がありますね。
今後のお二人のお仕事の展開についてもぜひ伺いたいのですが。中村さんはカリブにフォーカスしながら、ブラック・カルチャーへも視野を広げておられるでしょう。
中村 自分としては、岩波新書から『ブラック・カルチャー』を出すことができ、環大西洋的な研究についてやりたいことの道筋はある程度示せたと思っています。今年五〇歳に差し掛かることもあり、この後どんな仕事をしていくのかを考えているのですが、まずは読者を作ることが、非常に重要だと思っています。社会還元的視点で、私たちが生きている時代とはどういうものなのか考えたいんです。
具体的に言うと、テーマはデジタルテクノロジーです。『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』の中で沼野さんが話されていたように、大摑みの人類史の展開として、農業革命があり、産業革命があり、さらに第三のものとして情報革命があったと。
二〇〇〇年代以降急速に広がり、我々の知的インフラになってしまったのがインターネットです。ネット社会が我々の言語の貧困化をもたらし、ある種の格差を強めてもいます。そして小さなスマホの中に、知であり、エンターテインメントであり、経済活動であり、コミュニケーションであり、あらゆるものが集約されていくわけです。
ハイデガーがサイバネティクスの登場に哲学の終焉を見て以来、今や、「理性的動物としての人間」という語りが不可能になってしまいました。人間の思考のベースがデータになり、脳還元主義的に、人間の知性が機械的に捉えられるようになっています。これは比喩のレベルにも表れていて、「解像度が上がる」とか「アップデートする」などが、一般的な表現として使われています。こうした状況からもたらされる人間像とは何なのか、今一番考えたい問いです。
そうした関心にも絡んで、堀さんのドゥルーズ論で面白かったことの一つは、カメラによる知覚の捉え方です。人間はイメージに阻害されて自由に知覚できていない。カメラこそが純粋な知覚なのだと。もう一つ言葉として面白かったのは「純粋情動」です。特定の人や物や時空間から解き放たれたものが「純粋情動」であり、それは幽霊的に常に地上を徘徊していると。
堀 中村さんのテクストを拝読しながら、ドゥルーズが具体的に展開していないところを、中村さんがグリッサンともに広げてゆくような感覚を抱きました。グリッサンとドゥルーズのあいだで、バトンの行き交いがあるのだなと。
中村さんの関心に重なりますが、現在は技術的にも政治状況的にも、非常に大きな転換期です。その転換に見合う仕事でなければ、この先読まれないだろうという、強い危機感があります。
その中で思うのは、たとえば今回のシリーズの二一世紀版が、二一二五年に成り立つのか、ということです。
松浦 それは非常に重要な問いですね。
堀 それと私自身は、芸術作品を語る言葉への愛好があります。たとえば政治状況について語れても、その言説では、芸術作品には追いつかないことがある。政治はもちろん大事ですが、同時に芸術作品をいかに語るのか、語ることができるのか。この問いは私にとって、人間の生に見合う言葉とは何か、という問いに結びついています。
もう一つ想起されるのは、生成AIの存在です。これから生まれてくる子どもたちは言語の習得過程で、既にAIがあるという状態になります。今後、創造する行為はどうなるのか。人間の活動とは何か、人文知を含めた人間像はどう変化していくのか。
一見すると「多様」で「分散」しているように見える言説やイメージの生産や配信を、ごく一部の企業が掌握し、一元的に管理する状況は、極端な中央集中を呼び招きうるものです。独裁者が座るための場所を、技術的環境がわざわざ準備してあげていると言ってもいい。旧来とは違う顔をした、生成機械時代の支配者が出現するかもしれない。AI開発はおそらく止まらないでしょう。存在しているものを事後的に監視することに加えて、存在やイメージや言葉の誕生そのものを、前々から統御する体制です。しかもそのアルゴリズムは、人間の手の届かないところに行ってしまう。それに、どのように揺さぶりをかけられるのか。
松浦 AIが人間の知能に追いつくシンギュラリティは、二〇四五年ぐらいだろうとレイ・カーツワイルは予言したけれど、これは大幅に早まりそうでしょう。そうなったときに研究者や小説家、詩人でさえも、AIにとって代わられるかもしれない。オリジナリティとは何か、創造行為とは何か、人文科学はそういう状況にどう対応しうるのか等、大問題の数々が一挙に出てくる。
中村 グリッサンについて、最後に翻訳の話をしていますが、昨今では翻訳も瞬時にほぼ最適化された言葉が弾き出されます。これが翻訳だと理解してしまえば、余剰がなくてノイズがなくて、最適化されたものだけが言葉として残っていくことになる。けれども言葉の中にあった余剰や迷いや、言葉そのものを楽しむ感受性、それこそが一昔前に「人間らしさ」として指し示されたものではなかったのか。
私たちは今、価値基準の崩壊の現場にいます。おそらくそれは、政治の場における保守化現象とも結びついているでしょう。二〇世紀の遺産を今一度、私たちが検証し直し、受け継ぐべきものを受け継いでいく。今ここにいる者がそのことを真摯に考えて、言葉にすることが責務であると思います。
松浦 加速度的にテクノロジーが進歩し、人間の感性、知性、創造行為は、何とかそれに追いつかねばという、浮き足立った気持ちにさせられている。さらに世界的に保守反動化が進んでいて、多くの国で極右政治家が国家元首になる状況です。なんとか瀬戸際で踏みとどまるためにも、ここに並ぶ二〇〇名ほどの名前を、もう一度思い出してみることが有益かもしれません。
中村さんが「余剰」と言い、「迷い」と言われた。どちらもこれからのキーワードになりうる刺激的な言葉ですね。余剰も迷いも即座には生成AIにはカバーしきれない領域ですから。
そういう「人間らしさ」にこだわりながら、哲学でも批評でも文学でも、人文知に関わっている人間は、ここで足を踏み締め直して、二十世紀の遺産を確かめつつ前に進んでいく、と。
最後に一言ずついかがですか。
中村 私たちの役割の一つは、希望を語ることだと思うんです。深刻な状況を見据えつつ、希望を語ることを同時にしていかなければいけない。
堀 今後、階級化がより進み、様々な格差が折り重なって、複合化してゆく環境のなかで、どのような言葉をつくっていけるのか。私自身は、野良犬でありたいと思っています。
松浦 僕はやはり、希望を「詩」の中に見出したいという気持ちが強いです。広義の「詩的思想」について今回、中村さんが展開されましたが、詩的なるものこそ、人間がより少なく絶望するための手がかりを担保してくれるものなのではないか。詩も今は力が弱くなっていますが。左か右かといったイデオロギー的対立を超えたところで、詩に希望と未来を託したいと思います。(おわり)
★まつうら・ひさき=詩人、小説家、東京大学名誉教授・フランス文学・表象文化論。著書に『半島』(読売文学賞)『明治の表象空間』(毎日芸術賞)など。一九五四年生。
★なかむら・たかゆき=早稲田大学教授・フランス語圏カリブ海文学・環大西洋文化研究。著書に『ブラック・カルチャー』など。一九七五年生。
★ほり・ちあき=早稲田大学ほか非常勤講師・フランス文学。著書に『ドゥルーズ 思考の生態学』など。一九八一年生。
