文明と戦争の誕生
小林 一美著
関 智英
さまざまな経験を重ねるなかで得た教訓や発見を、人は何らかのかたちで遺しておきたいと思うものかもしれない。本書を通読して感じたのは、そうした著者の強い思いであった。
本書を理解するうえで、著者の経歴はきわめて重要である。最初にその歩みを振り返っておきたい。
著者は義和団戦争――清朝末期の一九〇〇年に中国で起きた排外運動――の専門家である。複数の大学で幅広く世界史を講じ、近年は文化大革命――一九六六年から十年間、中国を動乱に巻き込んだ政治運動――について、犠牲者の視点に立ち具体的状況の解明に尽力してきた。その関心の幅は広い。
著者の思想的遍歴は、信州の「百姓家」に始まる。一九三七年、日中戦争の勃発した年に生まれた著者にとって、最初の大きな衝撃は日本の敗戦であった。「世界に冠たる大和民族の偉大さ」が一瞬にして雲散霧消し、小学生だった著者の心も急激に変化する。「たちまちマッカーサー贔屓になった」という述懐が、その転換の大きさを物語る。やがて師範学校卒の祖父に倣い、故郷で家業を継ぎながら教師になることを志し、東京教育大学へ進学した。
当時はマルクス主義史観が全盛であった。東洋史学を専攻した著者も、例外ではなかった。歴史発展の基本法則――原始社会から古代奴隷制、中世農奴制、近代資本制社会を経て、社会主義・共産主義社会へ至るという段階論――の合法則性を証明することに関心を抱いたのである。著者自身の言葉を借りれば、「中国共産党が主導した中国革命の偉大さと正当性を、中国史の必然的な道、階級闘争史の帰結として証明することが任務となった」のである。
しかし一九八〇年代以降、ソ連や中国共産党の問題点が次第に明らかになるにつれ、著者の「脳は逆転」する。これまで燦然と輝いていた革命の聖地は、大粛清の記憶と重なり、おぞましい場所へと変わった。そして「世界史の新しい構造がかすかに見えるような気がした」のは、学生時代から半世紀を経た二十一世紀に入ってからであった。
世界史の新しい構造を探るにあたり、著者に大きな影響を与えたのが、柄谷行人の『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)、『世界史の構造』(岩波書店)、『遊動論――柳田国男と山人』(文藝春秋)といった一連の著作である。これらを通じて著者は、世界人類史のなかで、遊牧民や狩猟民、難民や移民といった人々の再評価が進む時代の到来を実感したという。また、中沢新一の『熊から王へ』『野生の科学』『人類最古の哲学』(いずれも講談社)などの成果も、著者が従来の人類発展史観と決別するうえで大きな刺激となった。
もっとも著者は、柄谷や中沢の議論には、ユーラシア大陸全体史や東洋史に関する実証研究に基づく具体的な「世界史叙述」が十分ではないと考える。そこで本書では、ユーラシア全体の人類史に対する具体的言及を試みたのである。
本書は六部構成で、各時代を象徴する著作を読み解きながら論を展開する。
その導きの糸となっているのは、第Ⅰ部「中華世界における文明と野蛮の誕生とその構造」では『春秋左氏伝』と『論語』『孟子』『老子』『荘子』など諸子百家の書、第Ⅱ部「奴隷制ギリシア社会とエーゲ海とアジア・エジプト」ではヘロドトス『歴史』、第Ⅲ部「イスラーム世界の「王権・都市・遊牧民」の不思議な関係」ではイブン=ハルドゥーン『歴史序説』、第Ⅳ部「サマルカンド遊牧王子、ムガール帝国を建国」ではバーブル『バーブル・ナーマ』、第Ⅴ部「ロシア革命に永久革命の夢を託したユダヤ人」では中澤孝之『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち』、第Ⅵ部「チベット人の敬虔な精神世界とその破壊」ではナクツァン・ヌロ『ナクツァン――あるチベット人少年の真実の物語』である。
各部では原書の内容が充分に紹介されており、原典に当たらずとも、その要旨と著者の見解を理解できる構成となっている。また巻末には関連地図も付され、読者の理解を助けてくれよう。
今日では、多くの歴史研究者が、戦後日本におけるマルクス主義の受容や影響そのものを歴史的事象として捉えている。「〝国家〟は人類が誇る文明の原器であり共同体の最高形態である。しかし同時に、それは野蛮な戦争を生み出す存在でもある」といった記述にも、特別な新奇性を感じないかもしれない。
しかし、「史的唯物論のイデオロギー的呪縛力は世界宗教にも匹敵するほど強く、そこから脱却するには長大なエネルギーを要した」という著者の言葉は重い。
長年、マルクス主義的歴史学の法則性解明に真摯に向き合ってきた当事者であるからこそ、本書で取り上げられる諸著作から新たな光を強く感じ取ることができたのだろう。文化相対主義を自明の前提としてきた評者は、本書を通じてその道程の一端を追体験する思いがした。
本書は米寿をひかえてなお執筆に打ち込んだ著者の学問への誠実さをも踏まえて読まれるべき一冊と言える。(せき・ともひで=津田塾大学教授・中国近現代史)
★こばやし・かずみ=神奈川大学名誉教授・東洋史。著書に『日中両国の学徒と兵士』『わが昭和史、わが歴史研究の旅』『中共革命根拠地ドキュメント』『M・ヴェーバーの中国社会論の射程』など。
書籍
| 書籍名 | 文明と戦争の誕生 |
| ISBN13 | 9784867350614 |
| ISBN10 | 4867350613 |
