2025/10/10号 7面

ハイデガーとナチズム

ハイデガーとナチズム 細川 亮一著 轟 孝夫  本書は「ハイデガーとナチズム」問題を単に「スキャンダル」として捉えることなく、ハイデガーのテクストの徹底した読解に基づいて解明しようと試みる労作である。実際、著者の過去の著作に見られるような、テクストの豊富な引用に依拠して議論を運ぶやり方は健在で、そのことが本書の資料的価値を高いものにしている。  細川によると、「ハイデガーとナチズム」問題は「ハイデガーはナチズムのうちに何を見たのか」と「ハイデガーがナチズムからいつ離反したのか」という二つの問いに答えねばならない。最初の問いに対する細川の答えは、ハイデガーはナチズムのうちに「別の始元への移行の可能性」を見て取ったというものである。このことは細川曰く、ハイデガーの一九三四/三五年冬学期のヘルダーリン講義において明確に定式化された「詩人―思惟者―国家創造者という創造者の三位一体」の構想のうちに示されている。つまり三位一体のうちの国家創造者がナチズム(ヒトラー)を指していると解釈するわけだ。  この見方に基づいて、細川はハイデガーのナチズムからの離反は三位一体の構想が一九三八年に放棄された際、はじめて生じたと主張する。それ以降、ハイデガーはナチズムを「近代の完成の開始」を担う主体として批判的に捉えるようになる。これが二つ目の問いに対する回答である。  細川はこうした問題を論じる際、『存在と時間』における「民族の生起」への言及をハイデガーのナチス加担の思想的背景として指摘するだけで済ませるやり方からは正当にも距離を取っている。また既存の「ハイデガーとナチズム」論では単なる時流迎合の言説として軽視されてきた学長期やその直後の演説や講義を哲学的分析の俎上に載せている点も、研究の姿勢としてきわめて真っ当である。  しかし他方で、「存在」の創設に関する特定の定式化を三位一体の構想と名づけてその内容を恣意的に確定し、それをさらにナチズム肯定と同一視するという本書の解釈手法が、せっかく丹念に集められたハイデガーのテクストの解釈を至る所で歪めている。細川は三位一体の構想の成立を一九二九/三〇年冬学期講義のうちに見て取り、それ以前の思索との断絶を強調する。しかしハイデガーは自身の思索において一貫して「存在」によって基礎づけられた民族共同体の創設を視野に入れており、三位一体の明示的な定式化のあるなしにかかわらず、彼の思索はつねに「別の始元」の基礎づけに関わっている。本書において三位一体の構想に至る前段階として詳細に分析されている一九二〇年代の「全体としての存在者」の形而上学もそれ自身、「別の始元」の企投以外の何ものでもない。  ハイデガーが一九三三/三四年の学長在任中に「別の始元への移行」の可能性をナチズムのうちに見て取っていたという細川の指摘は正当である。しかし「別の始元への移行」という理念はナチズムの肯定を必然的に帰結するわけではない。ハイデガーは一九三四年にはこの理念に照らして、ナチズムが近代的学問を相対化できず、逆にそれを促進する勢力に堕していることを非難していた。つまり三位一体の構想を維持しつつ、その枠内でナチズムを批判的に捉えることは細川の否定にもかかわらず原理上可能であるし、実際にそうであった。  このようにニヒリズムへの反対運動がそれ自身ニヒリズムの推進に堕するという現象が、実は近代形而上学の根本動向を反映しており、そのことがニーチェの力への意志の形而上学に先駆的に示されているという洞察に至るのは、細川が本書で示すとおり一九三八年以降である。このときナチズムの評価が「別の始元への移行」を担っているか否かという二者択一から、ニヒリズムの完成を仮借なく追求する「偉大さ」を有するという内在的な規定へと変化する。  一九三六年に始まる一連のニーチェ講義の途中で、ハイデガーのニーチェ評価が大きな変化を遂げることはよく知られている。本書ではそうした変化が具体的にいつ、どのように起こったのかが、単行本の『ニーチェ』とその元となった講義録のテクストの異同にも注意しつつ丹念に跡づけられている。私見では、この点に本書のハイデガー研究に対する最大の貢献が認められる。  ただし一九三八年に三位一体の構想の放棄――より具体的には、三位一体の構想からの国家創造者の契機の脱落――が起こったという細川の主張には賛同できない。先述のとおり、三位一体の構想はハイデガーの思索に本質的に内在する政治的含意を明示的に示したものでしかない。それゆえ細川が三位一体と呼んでいる特定の定式化が見られなくなったとしても、彼の思索はつねに民族共同体の創設という目標を内包している。実際、本書に引用された一九四〇年代のテクストでも、ポリスの創設についてはなお積極的に語られている。  これに対して細川はこの議論の文脈で「政治的なもの」や「革命」が否定的に語られていることから、三位一体の構想の放棄を結論づけている。しかし三位一体が想定する「政治的なもの」や「革命」が、それらの語の通俗的な理解とは異なる意味をもつことは以前から強調されていた。ハイデガーはこうした留保だけでは、これらの言葉を形而上学的思惟から切り離すことが難しいことを認識した。それゆえ彼はそうした言葉の使用を全面的に差し控える道を選んだのである。  したがってこれら一連の形而上学的な語彙の放棄は、ハイデガーがかつてそうした語によって示そうとしていた事象の放棄を意味しない。それにもかかわらず、細川がハイデガーの語法の変化をいとも短絡的に思想の変化や「自己批判」と解釈してしまうのは、そうした用語法の変化にもかかわらずハイデガーが一貫して問題にしていた「別の始元」、すなわち「存在」という事象をまったく見て取れていないことによる。  「存在」という事象への根本的な無理解は、他の点についてはあれほど饒舌な細川がハイデガーの「黒いノート」の反ユダヤ主義的だと疑われる覚書を本書ではまったく取り上げず、それらが反ユダヤ主義的だという世間の「スキャンダル解釈」を素直に受容していることに如実に示される。ハイデガーは西洋形而上学を、ユダヤ―キリスト教をそのひとつの起源とするという意味で「ユダヤ的なもの」だと捉えていた。それゆえ「黒いノート」ではナチズムが「ユダヤ的なもの」に反対しつつも実はそれ自身がユダヤ的であるという言い方で、ナチズムが「別の始元への移行」に逆行し、むしろ「近代の完成」の促進者でしかないことを揶揄していたのである。つまりハイデガーの「ユダヤ的なもの」をめぐる言説も「存在」という事象との関係性を視野に収めていれば、一九三八年以降、先鋭化するナチズム批判に属することがおのずと明らかになる。  最後に技術的な問題点を指摘しておきたい。本書には凡例や文献表が付されておらず、参照箇所を指示する際に用いられている略号に対応する文献が何であるかを一覧することができない。このことにより、本書の読みやすさと資料的価値が減じられているのは残念である。(とどろき・たかお=防衛大学校教授・哲学)  ★ほそかわ・りょういち=九州大学名誉教授・哲学。著書に『意味・真理・場所』『ハイデガー哲学の射程』『ハイデガー入門』『形而上学者ウィトゲンシュタイン』『アインシュタイン』、訳書に『真理の本質について』(ハイデッガー全集第34巻)など。一九四七年生。

書籍

書籍名 ハイデガーとナチズム
ISBN13 9784779518645
ISBN10 4779518644