書評キャンパス
宇能鴻一郎『アルマジロの手』
大角 ひかる
近年、「宇能リバイバル」ともいえる流れがある。それはおおよそ、『べろべろの、母ちゃんは…』(二〇〇五)から始まり、続く『夢十夜』(二〇一四)、そして『姫君を喰う話』(二〇二一)によって決定的なものとなった。この潮流の中で刊行されたのが本作『アルマジロの手』(二〇二四)だ。『姫君を喰う話』同様、珠玉の短編がそろい、特に「蓮根ボーイ」の初収録は貴重である。引き続き、宇能の短編集ならびに新作を期待したくはあったが、惜しくも本作が、宇能の生前に刊行された最後の短編集となった。前作に収録された巻末エッセイには、宇能宅に闖入した子狸らの様子が何とも愛らしく描かれているが、それは本作への伏線でもあったのだろう。
というのも、本短編集にはアルマジロをはじめ、狸、鮟鱇、鰻、海亀など多くの動物が登場し、このことは花房観音の書評「背徳感溢れる物語」(新潮社「波」)でも指摘されている。宇能作品において動物は、芥川賞を受賞した「鯨神」(一九六一)から重要な位置を占めており、「心中狸」、「月と鮟鱇男」、「海亀祭の夜」はすべて『血の聖壇』(一九六七)から、収録順もそのままに掲載されている。
それは愛護的な表象というよりむしろ、人間という枠組み=檻を解体する存在としてあり、また、常に我々を眼差しつづける存在でもある。例えば、「心中狸」では、姫君に恋焦がれた阿波狸が女中に化けて奉仕する様子が描かれるが、この雄狸がもつ愛情は『玉水物語』と比較するにはあまりに倒錯的だ。身辺の世話をすることで得られていた充足感はやがて、「人間の男のふつうのやり方」で姫君と関われぬという不能感を呼びおこし、超えてはいけない一線へと足を踏みださせる。
このような、欲望する対象と合一しえない不能感は「月と鮟鱇男」においても反復される。「慶子の体は食物とちがって、いくら味わっても、満腹感を、あの苦しいばかりの充実した喜びを、与えてくれない」。宇能鴻一郎は官能とともに食の文章でも有名だが、ここにあらわれるのは、満足感よりむしろ「飢渇の感じ」であり、デビュー作「光りの飢え」(一九六一)からの主題は、同じく姪浜を舞台にした「蓮根ボーイ」によっても強烈に表現される。アメリカザリガニや雷魚を腹におさめて恍惚とするさまはかくも官能的だ。
また、生活のために鰻捕りをする主人公は、つづいて生きるために鰻の生き血を飲む「鰻池のナルシス」へと「万華鏡」(鵜飼哲夫「解説」)のように変奏される。ナルシスの美少年は「魔楽」の男色へ、こちらは挑発的な美少年へと逸脱し、絢爛たるインドの情景は、第一編「アルマジロの手」の舞台である夏のメキシコとつながる。日本人に恋したメキシコ人女性の悲劇的顚末は、森鷗外『舞姫』的ではなく、『四谷怪談』を思わせる復讐譚としてある。付言すれば、小説内からは「悲劇の十日間」などの政治的出来事も垣間見え、宇能の目配りの細やかさも伺える。
これら短編の多くは、主人公「私」が遭遇した者による「物語り」によって進行する枠物語形式をとるものが多いが、そのことを踏まえると、短編集全体が宇能鴻一郎を媒介とした、様々な語り手による百物語のようにもみえる。百話目には物の怪が出るとされているが、未だその気配はない。それもそのはず、宇能は「人生最後の仕事として新選組を構想している」らしかったが、その作品は未だ語られていないのだから。
★おおすみ・ひかる=近畿大学大学院総合文化研究科日本文学専攻創作・批評コース修士1年。宇能鴻一郎の作品について書いています。「心中狸」に関連して、淡路人形浄瑠璃を観に行く予定です。資料館も行きたい……!
書籍
| 書籍名 | アルマジロの手 |
| ISBN13 | 9784101030524 |
| ISBN10 | 4101030529 |
