2026/03/20号 7面

映画時評〈3月〉(伊藤洋司)

映画時評 3月 ホン・サンス『自然は君に何を語るのか』 伊藤洋司  三十代半ばの詩人ドンファは恋人のジュニを自動車で実家まで送る。それだけの筈だったが、ジュニの父に遭遇し、家のなかに招かれ、さらには夕食まで振舞われる。だが、彼は夕食の席で酒に酔って醜態をさらし、この予期せぬ顔合わせは失敗に終わる。ホン・サンスは『自然は君に何を語るのか』で、このありふれた悲喜劇の様々な会話を誇張なしに丁寧に、だがさらりと描きつつ、退屈さとは無縁の秀逸な会話劇を撮ることに成功した。  気まずく終わった夕食の後、ジュニの両親は二人で話す。父親が娘の恋人について、「言葉にとらわれ抜け出せない。それも他人の言葉に」と評すと、「あなたも時々そうなる」と、母親は夫に返す。「何言ってんだ」と父親が憤慨し、母親は笑うが、彼女のこの指摘は事実だ。例えば、父親は娘の恋人のドンファと初めて二人きりになった時、「私の妻も詩人だ」と言い、「私なんかよりずっと賢い。私の場合は本を読んで得た知識だよ。偉そうに言ってるけど。でも彼女は違う。人生で自分が経験したことから知恵を授かってるんだ」と語った。これは父親の謙虚な言葉のようだが、「本を読んで得た知識」とは妻の言葉の受け売りで、父親は確かに「他人の言葉」にとらわれている。夜の夫婦の会話で、妻は娘の恋人を「本で得た知識で生きてる」と評するが、これは明らかに自分の夫に対しても言ったことがあり、夫はその言葉にとらわれているのだ。  従って、ジュニの父と恋人は見かけ以上によく似た存在だと言える。母親が愛する男性と娘が愛する男性に似た面があっても不思議ではない。一方、詩人という点では恋人はジュニの父よりも母に近い。では、肝心の詩の才能はどうだろうか。「技術が不足よ。才能がないのよ」と、母親が娘の恋人について夫に語るように、観客は恋人のドンファが披露する詩の一節に物足りなさを感じるだろう。母親はドンファについて、「まだ壁にぶつかった経験がない」と言い、「自分に何ができないかまだ分かっていない年齢」だとも言う。ここにはまだ希望がある。詩人として成功できなくても、この先、人間としての成長の可能性があるからだ。そもそも、ジュニも姉のヌンヒに、ドンファについて「もし詩を諦めても努力に生きる人よ」と言うのだから、才能は問題ではないのかもしれない。実際、ジュニの父はドンファと似た面を持ちつつも、「本を読んで得た知識」だけでなく、様々な人生の経験に裏打ちされた大人としてドンファの前に現れ、細やかな配慮を示している。この先、ジュニとドンファの関係がどうなるかは分からない。八方塞がりの結末のようでいて、実は様々な可能性に向けて開かれている。  自然というホン・サンスの映画の重要な主題にも触れよう。解像度の高さが何より大事であるかのようなデジタル映像技術の発達に逆らってソフトフォーカスが多用される。神勒寺でのジュニとドンファのショットは特に大胆で、形態の輪郭がぼやけるほど、光の繊細な輝きが際立つ。また、ジュニの父もドンファも自然を愛し、ここでも二人は似た性格を示す。しかし、自然の本当の豊かさが開示されるのは、豊かな人生経験を通じてであり、信念によってではない。ドンファは純粋ではあるがまだその域には達していない。今回の苦い経験を通じて、一歩近づけるのだろうか。  今月は他に、『ナースコール』『正義廻廊』『カミング・ホーム』などが面白かった。また未公開だが、サアド・クレシの『大いなる灯火』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)