長谷川テル著作集
長谷川テル研究会編
太田 哲男
長谷川テル(一九一二―四七)は、日中戦争の時代の中国で反戦放送の活動などをしたエスペランチストである。
テルの主著『嵐の中からささやく声』(一九四一年)、『戦う中国で』(四五年)の二冊は日本語訳されて久しいが、それ以外の雑誌の論説などには、一般には入手困難なもののほか、未邦訳のものもあった。このほど刊行された『長谷川テル著作集』(以下、『著作集』)では、それらを多く収録し、「日本時代の著作」「中国時代の著作」として配列した。懇切な注・資料と相まって、テルの著作や反戦放送などの活動の様子を、従来よりも立ち入って把握できる画期的な成果といえよう。
一九二九年四月、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に入学したテルは、国内の政治・社会状況に息苦しさを感じ、他方でエスペラントを学び始めたが、三二年秋に治安維持法違反の嫌疑を受けて女高師からの退学を余儀なくされた。東京の自宅に戻ったテルは、エスペラント学習に励み、中国で発行のエスペラント誌『ラ・モンド(世界)』に寄稿し、フランスのエスペラント誌とも接点をもち、国際的な感覚をも養っていた。そして、エスペランチストの中国人留学生たちとの交流の中で、中国人の劉仁と結ばれ、エスペラントの運動に参加しようと、運動の中心地・上海に渡る決心をした。
テルは「ファシスト統治下の日本女性」という論説で次のように列挙している。当時、女学校の学生は「夫の奴隷」となる教育を受けるし、女高師の卒業生は中学校の教員にはなれず、初任給にも男女差別があり昇給速度も異なる。女性には「姦通罪」が適用されるが、男性には適用されない。「普通」選挙権というが、女性は選挙から完全に締め出されている。女性が政治家になりたいというのは「十歳の少女の幻想」だ、などなど。〈女性活躍〉には実に困難な条件が立ちはだかることに対する反発が、テルにはあった。
一九三七年四月、テルは上海に渡ったが、まもなく上海事変が始まった。日本軍は上海に大量の焼夷弾を投下し、住民たちを機関銃で掃射し、その結果、難民があふれていると、テルは目の当たりにした光景を『戦う中国で』において描いたが、それは否応なしに現在のウクライナやガザを連想させる。テルと劉仁は、上海を離れ、「香港と広東を通過して、抗日戦の新しい中心地である漢口へ行こう」と決意する。
広東、漢口(現・武漢)、そして重慶と、テルの行くところ、日本軍による激しい空爆にさらされ、その体験が彼女の反戦の訴えを鮮烈なものとしたといえよう。
テルは、日本人であるがゆえに、追放処分を受けたこともあったが、やがて漢口に拠る中国政権の発する対日放送に参加することになった。テルが日本に向かって反戦平和を訴えたことは知られていたが、その内容は部分的にしか知られていなかった。今回の『著作集』では、その訴えの内容が、より明らかになった。
さらには、日本に向けての訴えだけではなく、広くはスペインへの独伊の介入にも目を向け、「全世界のエスペランチストへ」などの論説も発信していた。と同時に、テルにはルポライターとしての資質もあった。「まだ見ぬ朝鮮の兄弟たちへ」という一文で、テルが武昌の収容所で出会った朝鮮人の少女たち二人が、「慰労軍」の名のもとに日本兵の「獣欲を満たすために」犠牲になったと聞いたことを伝えているのはその一例である。
日本軍による漢口制圧後、テルと劉仁は重慶に移動していく。国民党と共産党の間の軋轢の顕在化などもあり、テルの対日放送活動期間は長くはなかった。だが、重慶で刊行した主著『戦う中国で』は、テルが上海への渡航から広東に移動した時期を自伝的に鮮烈に描き出していて、興味が尽きない。
巻末の「長谷川テル年表」「著作リスト」も、彼女の活動をうかがう手がかりになる。(おおた・てつお=桜美林大学名誉教授・思想史)
★はせがわ・てる(一九一二―一九四七)=エスぺランチスト・反戦・反帝国主義運動家。本名は長谷川照子、中国名は緑川英子、エスペラント名はVerda Majo(緑の五月)。中国にて日本兵向けに反戦放送を行う。著書に『嵐の中からささやく声』など。
書籍
| 書籍名 | 長谷川テル著作集 |
| ISBN13 | 9784862516176 |
| ISBN10 | 4862516173 |
