2026/01/09号 5面

「偉大なる映画作品『タブウ』」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)420(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 420 偉大なる映画作品『タブウ』  JD 私たちはシネマテークで上映される外国の映画を、言葉のわからないまま、「演出」を通じて理解しようとしていました。それは小津や溝口など日本映画に限ったことではなく、ロシア映画、ドイツ映画、デンマーク映画、スウェーデン映画などなど、世界中の映画にまたがっていました。無声映画を見ることにはあまり大きな問題はありません。無声映画の大部分は映像と編集で成り立っているからです。  HK ムルナウの『サンライズ』のように、中間字幕をどこまで減らせるかが〝賭け〟になっている作品もあります。  JD その通り。真に優れた無声映画は、言葉に頼っていません。必要最低限の説明だけで成り立っています。一方で出来の悪い映画の多くは、「文学的」な作りになっています。ムルナウ自身も、どこまで純粋に映画の言語で語れるかを探究していました。彼の映画は初期の頃から、他の同時期の映画作家と比較すると、中間字幕による説明が圧倒的に少ない。そうした彼の映画的探究は、『サンライズ』で頂点を迎えます。しかしそれ以前の作品、例えば『タルテュフ』なども素晴らしい出来です。今までに作られたモリエール原案の作品として、最も素晴らしい作品である。モリエールの戯曲を言葉に頼ることなく実現しながらも、最も饒舌な作品となっています。モリエールの舞台の持つ言葉の豊かさ、血の通った登場人物たちの姿、物語の面白さを余すことなく再現できた唯一の作品です。戯曲を、言葉を使うことなく、舞台の上で上演する以上に演出することができています。コメディ・フランセーズには、考えることすら不可能な行いです。  その他にも『最後の人』や『ファウスト』といった作品もあります。『最後の人』に関しては、わざわざ言うまでもない、ドイツ時代の傑作です。『ファウスト』もドイツ表現主義の無声映画の完成系の一つです。それから『サンライズ』の後、プロデューサーとの確執があったちょっとした作品があり、大傑作『タブウ』へとつづく。フィクションとドキュメンタリーが混ざり合う、つまり虚構と現実が混ざり合う、それまでとは全く異なる地点に、映画を連れて行ってしまった作品です。ムルナウ以前にも、記録映画のフラハティがいて――『タブウ』で使用されている映像はフラハティのものです――、エプシュタインやルノワールなどがいました。つまり、現実の世界を相手に映画を作ろうとする野心的な試みはあったのです。そうした映画作家は、ドキュメンタリーの作家であったり、またはフランスの映画作家であれば、身近にスタジオよりも優れた風景があった。つまり、現実の風景は、記録目的や写実的な舞台装置として使用されていました。しかし、『タブウ』はそれらよりも遥か遠くに行くことに成功しています。そこには一方で、無声映画の歴史の中で積み上げられ完成させられた純粋な映画言語と演出があり、他方でボラボラ島の実際の人々の姿、風習、風景があるのです。それらが無駄なく混ざり合い、映画という表現を通じた神話のようになっている。過去と現在の二つの世界の対立があり、金銭の問題があり、所有の問題がある。太平洋の小さな島を舞台にしながらも、世界の歴史にまつわる問題が詩的に表現されているのです。今までに作られた映画の中において、最も美しく重要な作品の一つです。  HK 『タブウ』においても、言葉が介在することはほぼありません。  JD はい。字幕はほとんどありません。私の意見では、ムルナウは『タブウ』を作っていた時点では、言葉の有用性をまだ見出せていなかった。彼にとって言葉とは、当時の出来の悪いハリウッド映画にありがちな、映像と映像の間に挟まり不要な説明をする邪魔なものでしかなかったはずです。ラブシーンなどにおいて向かい合った男女が、愛の言葉を繰り返し囁き合うような、非常に無駄な中間字幕がありました。しかし優れた映画作家にとっては、『タルテュフ』のように言葉に頼らずとも、演出することが可能なのです。  〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)