2026/02/06号 5面

フウコ、森に立て籠る

フウコ、森に立て籠る 崎山 多美著 山﨑 修平  身体全体にことばが染み渡ってゆくような小説だ。  優れた小説とは、その筋道が読者を大いに共感させるからにあるのではなく、アクチュアルな論点を掬い上げているからでもない。いささか人を食ったような言い方をするならば、優れた小説の成立とは、小説という器でしか成し得ないことばの連なりにこそある。本書には、無数の細やかな傷のような、ことばによって拵えた引っ掛かりがある。  「そーそーそー。と木々がゆれる。」  例えば本書におけるこのような箇所で立ち止まる。これまで数多くの作家が木々の揺れるさまを言葉にしてきた。比喩を凝らして、あるいは精緻な描写によって。けれども、「そーそーそー」と表しているのは寡聞にして他に知らない。この点を、作者の独自性であるとか、作品の特徴である、として落とし込んではならないと考える。木々は元来「そーそーそー」と揺れるものであったのではないか。そう、私たちはこのような感覚をいつの間にか喪失していたのではないか。つまり本書によって、私たちは自らが喪失した、あるいは手放してしまった、五感による感情の揺れを取り戻すことができるのではないか。このことは、筋道が、ストーリー展開が、プロットが、という技術的論点としてのみ巷間語られている小説が、如何に狭隘で味気ないことであるかを思い知らせてくれる。本来の小説の機能とは、ことばによってことばを確かめて味わう、ただそれだけの至上の喜びのことでしかない。  本書は、従姉妹同士である「わたし」と「フウコ」の物語の体裁を取っている。「同じ年同じ月の一日違いで生まれた」二人という運命的な結びつきは、「わたし」から観る「フウコ」の視点に読者を介入させながら、同時に「わたし」という人物のバックボーンをも引き受けることに成功している。「フウコ」の言動や感情に敏感に反応する「わたし」に対して、読者は、翻弄にも似た、のめりこむような没入感を味わってゆく。ただ、本書は「わたし」と「フウコ」の友情譚という在りがちなものに落ち着くことはない。「フウコ」の精緻な描写においても、あくまでも、主体である「わたし」の捉え方から逃れることはない。数奇な運命であるとか、奇特な体験を提示して味わうだけという単調な物語に帰結しない点は、高く評価されるべきである。  本書によって、非常にセンシティブな筆致で炙り出されてゆくのは、「わたし」でもなく、「フウコ」でもないのではないか。本書の主眼として描かれているのは、随所に現れる「シマ」であり、「マチ」であるのではないか。崎山多美の読者であるなら、この「シマ」や「マチ」がなにを明示するのかすぐに解るだろうし、沖縄史や戦後史を紐解けば、本書の底流に流れているものを汲み取ることはできるだろう。だが、肝心なことはそのような事前の知識がなくても感受することのできる、これらの単語のいだく傷であり違和感にある。私たちの多くがなんの痛痒もなく、漢字表記するところを、「マチ」として片仮名に置き留められている。中央集権的な漢字表記による均質化されたことばの表現を、片仮名にすることによって、留保が、あるいはときに抵抗や反発をも表されていることに注目するべきだろう。ことばとは、話者や書き手の必然の連続であって、ときに合理性をも超える、ひとりの人間の血液として機能している。  最後に。「わたし」や「フウコ」、そして幾多の生命の息遣いが其処此処に感じられる本書は、改めてことばとは生命そのものを表すものであるという感慨をもたらす。幾多の命が潰えて、また新たな命が生まれる。連綿と続く生命の連鎖を、ことばがただ其処にあるものを描写してゆく。「森に立て籠る」ことによって、生まれてくることばも、泡沫のように消えゆくことばも、人によって為されてゆく。人と、ことばと、真っ直ぐ向き合ってゆく、優れた小説である。(やまざき・しゅうへい=詩人・作家)  ★さきやま・たみ=「水上往還」(九州芸術祭文学賞)と「シマ籠る」が芥川賞候補に。著書に『くりかえしがえし』『ムイアニ由来記』『ゆらてぃくゆりてぃく』『月や、あらん』『うんじゅが、ナサキ』(鉄犬ヘテロトピア文学賞)『クジャ幻視行』など。一九五四年生。

書籍

書籍名 フウコ、森に立て籠る
ISBN13 9784755403644
ISBN10 4755403642