2025/04/18号 8面

田中秀臣×片岡剛士トークイベント「森永卓郎トリビュート――オタク経済学はニッポンを救う!」抄録

 今年の1月に亡くなった森永卓郎さんの人柄や数々の功績を振り返るトークイベント「森永卓郎トリビュート――オタク経済学はニッポンを救う!」を3月下旬に読書人隣りで実施。  経済学者の田中秀臣氏とPwCコンサルティング合同会社チーフエコノミストの片岡剛士氏。森永さんを敬愛してやまない二人の登壇者による90分にわたるトークの模様を抄録する。 (編集部)  田中 森永卓郎さんは多面的な人でしたから、私と片岡さんでもだいぶ見え方が違いますよね。  片岡 そうだと思います。加えて、息子の森永康平さん(経済アナリスト)とも見え方が違うでしょうね。  田中 ですから、今日はそれぞれの目から見た森永さんについてお話ししていければと思います。  片岡 私の場合、森永さんとは10年超一緒に仕事をしてきましたが、私の知っている森永さんは皆さんがメディアでご覧になっている森永さんとはまったく違います。そもそも、私が30年前に新卒で入社した最初の上司が森永卓郎でしたので、ロールモデルがああいったむちゃくちゃ変な人だったわけです。  田中 30年前というと、ちょうど森永さんがメディアに出始めた頃くらいですか?  片岡 そうです。テレビ神奈川(現TVK)の番組に出演しだした時期です。そのことについては、先ごろ刊行された『森永卓郎流「生き抜く技術」』(祥伝社、2025年)の中でも少し触れられていますけれども、私や森永さんが所属していた三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)研究開発第3部とは別部署所属のエコノミストで、当時メディアに引っ張りだこだった嶋中雄二さん(白鷗大学教授)がメディアの仕事を引退するからといって、その代役として森永さんに白羽の矢が立ったのです。  田中 なるほどね。そして、その後はニュースステーションなどにも出演するようになるんだ。  片岡 メディアに出つつ、おもちゃなどご自身で集めたものを仕事に繫げていく時期だったように記憶しています。  田中 その当時からトミカのコレクションみたいなものも集めていたの?  片岡 好きでしたね。当時から「B宝館」的な構想はあったみたいですが、周りからは「そんなのはできっこないだろ」と言われていました。でも、のちにそれを実現してしまったわけですから、そこは率直に「森永さん、すごいな」と思います。  また、その当時に出した本もだいぶぶっ飛んだ内容でして。  田中 デビュー作の『悪女と紳士の経済学』(講談社、1994年)ですね。刊行当時、いわゆるフェミニスト界隈から総攻撃を食らったのを覚えています。  片岡 当時の三和総研の親会社の三和銀行からも「恋愛を経済学で語るなんてとんでもない、そんな本を銀行のシンクタンク研究員が書くとは何事か」と、お叱りを受けています。  田中 経済学はお堅いものに特化しなきゃいけないのだ、と。まさに固定観念ですよね。実は私も、「愛と情念の経済学」という卒業論文を書いて、森永さんと似たような体験をしたことがあります。ただ、森永さんはこの本によって、経済学の固定観念から脱却できたのではないかな。  片岡 実は、この本は社内恋愛の模様を観察しつつ書いている所もあるんですよ。  田中 へえー。  片岡 だから、当時内部にいた人間がこの本を読むと、あの人とあの人の話だねっていうのが、一目瞭然。それもあって、親会社の偉い部長さんが、これは発禁処分にしろと怒ったんです(笑)。  普通、自分の書いた本で上から大目玉を食らうと、さすがに次は違うテーマで、となるじゃないですか。でも、森永さんが次に出したのが『〈非婚〉のすすめ』(講談社、1997年)で、すでに振り切れちゃっているんですよね。そして、この本で森永流三大不良債権の話が出てきます。マイホーム、奥さん、子供の3つを持ってはいけない、と。  田中 本人は全部持っているじゃない(笑)。  片岡 そうなんですよ。自己が矛盾した存在であった。これが森永卓郎を語る上でとても重要なポイントの一つです。  田中 『悪女と紳士』と『〈非婚〉のすすめ』を読むかぎり、家庭を持っているイメージは全然なかった。  片岡 『〈非婚〉のすすめ』のあたりからフランスの自由恋愛やイタリアの自由なライフスタイルにならい、「好きなことをして楽しく生きよう」みたいなことを提唱します。ところが、ご自身はそれとは対極の暮らしをしていらした。  ちなみに、平日の森永さんはホテル住まいをしていて、おそらく5年前くらいまでそのような生活を続けておられたのではないかな。毎週月曜日は1週間分の着替えの入ったボストンバッグを持って出社してくるんですよ。そして、朝のラジオと夜のニュース番組の出演をこなしつつ、合間に講演も行う。講演で使うフリップや人形もそのバッグに入っていて……。  田中 芸人じゃないですか!  片岡 まさに。しかも、夜のテレビ番組に出演した後に会社に戻ってきますからね。そして土日に自宅に荷物を補充しに帰る。それでも、毎年必ず夏休みを1週間取り、家族で沖縄旅行に行っていたようです。  田中 本当、不思議なバランス感覚だよね。  片岡 森永さんは、いかに「個人を大事にするか」に主眼を置いていらして、その考えは首尾一貫していました。わかりやすい例が、森永流人事評価で、個々人が獲得した粗利だけを見て評価していた。いかに上司の機嫌をとろうと、利益が出ていなければ最低評価だし、逆に利益さえ上がっていれば、自由にやらせてくれる。なぜそうしたのか森永さんに尋ねると「上司が気に入らないという理由で人が不当に評価されるのは良くないことだ」とおっしゃっていました。  この森永さんの問題意識は、やがて『リストラと能力主義』(講談社、2000年)という形で世に提起されます。90年代以降の日本企業の体質が、愚直に成果を上げている人を評価しない方向に進んでいたことに対して警鐘を鳴らされたのですね。  田中 『リストラと能力主義』は、私的森永卓郎本のベスト5に入る一冊です。日本型雇用システムがどう成立しているか、森永さん的視点で合理的に書かれていて、なおかつ、それがデフレ、つまりマクロ経済環境によって大きく左右されることを指摘しています。私も雇用について関心があり、この本での森永さんの書き方や見せ方を、時論を書く上でのロールモデルにさせてもらいました。  もうひとつ、私にとって重要な一冊が、2001年刊行の『日銀不況』(東洋経済新報社)。それまで、岩田規久男先生(学習院大学名誉教授)をはじめとする一部の専門家が当時の日銀の金融政策を批判していましたが、この本は時論ベースで一般にわかりやすい形で日銀批判をした画期的な一冊です。  この本は森永さんの単著になっていますが、実際は3人ぐらいで書いていて、そのうちのひとりが現・日銀政策審議委員の野口旭さん(経済学者)。この本で野口さんが書いた構造改革論の批判的検証をさらに深堀りした本を出そうという話になり、野口さんから私にお声が掛かり、共著で出した『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社、2001年)が私の時論デビューです。ですから、森永さんが『日銀不況』を出していなければ、私の時論デビューはもっと後になっていたでしょう。  森永さんは、『構造改革論の誤解』以降の10年間に出した私の本の書評をほとんど書いてくれたんじゃないかな。すごく後押ししてくれました。そういった意味でも森永さんは私にとっての恩人なのです。  片岡 もともと森永さんは、岩田先生らいわゆるリフレ派のような貨幣を中心にしたデフレ議論とは別立てで、労働や雇用といった実物目線から長期停滞を検証し、そこからいかにサバイブしていくかを考えていました。ですから、『日銀不況』を書くまでは、日銀の金融政策の問題点をあまり認識されていなかった。ただ、受託調査等で世界恐慌のことを調べていくと、貨幣が重要だということがわかっていきます。それなら金融政策やデフレ問題に詳しい先生に協力してもらおう、となったのですね。  田中 そう考えると、森永さんはピーター・テミン(経済学者)と一緒だ。ピーター・テミンもはじめは実物経済で恐慌論を考えていたけど、後にマネーも重要だと気づきましたから。  ただ、残念なことに『日銀不況』はそこまで評判にならず、日銀の問題点を世間一般に周知しきれませんでした。  片岡 森永さんの言説というのは、「いま、こういう問題がある」ことを世に知らしめていくことを目的としていましたから、本人的に『日銀不況』からは手応えを感じきれなかったのだと思います。むしろ、日本経済の問題を一般ムーブメントにまで広げた意味では、後年の『ザイム真理教』(三五館シンシャ、2023年)の方が芯を捉えた認識があったんじゃないかな。  片岡 そして、森永さん的にもっとも芯を捉えたのは2003年の『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)でしょう。個々人が納得のいく、誰にも縛られない暮らしをするためにはどうしたらいいのか。その路線の一つの集大成として、長期停滞で給料が半減していく環境で上手にサバイブし、少ないお金で楽しんで暮らしていくための方策を、この本で世に示しました。  田中 年間のベストセラー(ビジネス書)にも入っていますよね。それまでのご著書で書かれてきたことをさらにわかりやすく整理した内容ですが、非常にキャッチーなタイトルで、まさに森永さんの時論のピークだといえる一冊です。  片岡 この本からもわかるのが、人間は汗水流して働くことで対価を得るべきだ、という発想への親近感です。その裏返しとして資産投資に対するネガティブな見方がある。  田中 それは昔から言っていることだよね。  長期停滞を背景にした時論でいうと、戦前の経済学者の高田保馬が『貧者必勝』という本で森永さんと似たようなことを書いています。ですから、森永さんの貧乏主義の先駆形態は高田に遡れます。  ただし、高田と森永さんには明確な違いがあって、高田は共同体全体で貧乏を徹底することで、経済格差をなくせると説いた。つまり高田の主張はいわば毛沢東的な共産主義のやり方です。対する森永さんには、おそらく官僚や政治家に対する懐疑心やペシミズムが底流にあり、あくまで個人主義に依拠した言説を貫いている。  片岡 でも、一緒に仕事をしたエスタブリッシュメントの人たちからの人気はありました。  森永さんを一言で表すなら「陰の人」です。あるいは「猜疑心の人」だと言ってもいい。目を見ればわかりますが、森永さんが心の底から笑っている写真はほぼないし、私も仕事で笑う森永さんを見たことがありません。でも、これは悪い意味で言っているのではなく、猜疑心があるからこそ、人間の本質を的確に捉えることができた。それが同時に、相手を喜ばせる方法論も導きだすことにも繫がります。  森永さんは根暗な本質を自覚していらした。だから、メディアへの出演時はあえて明るく振る舞うことで周囲を喜ばせていたし、そうした己の本質とは真逆の振る舞いを通じて「自由な生き方が大切だ」という主張を体現されてこられたのだと思います。  また本業面でいうと、森永さんは普通の人の2、3倍の案件をこなされていましたが、なぜそれが可能だったかというと、相手がやってほしいことを察し、そこに全力を投じていたから。これが森永さんのモットーでした。  田中 なるほど。それが人の心をつかむ秘訣だったんだね。  片岡 相手の気づいていないことを気づかせるようにもっていくのが本当に上手でした。単に依頼を忠実にこなすのではなく、森永さんの仕事を通じて新しいことに気づかせてもらった。そう言ってもらえる仕事をしていました。  田中 そういったアイディアマン的なところはさすがで、晩年になっても着眼点は健在でした。三五館シンシャのシリーズを読んでいて「へぇ」と思わせてくれるところはたくさんありましたから。  片岡 相手のニーズを的確につかむ仕事の仕方は、時論を書く上でもかなり役立っていたと思います。その意識がやがて、当時のオタクブームと接近し、オタク趣味を経済学で論じるみたいな話に展開していきます。  田中 2005年の『萌え経済学』(講談社)ね。  ちなみに『年収300万円時代』以降の著作は、ほとんどこれの焼き直しに思えて、私も全部は読めていないんですよ。だけどこの『萌え経済学』は違った。この本は要するに、『悪女と紳士』のオタク版で、恋愛しかり、オタク趣味でさえ経済学的な視点で立ち向かえる。そのことを教えてくれた、自分にとっては革命的な一冊でした。とはいえ、この本もそんなに売れていない気がする。  片岡 盛大に滑ったと思います。  田中 やっぱり。時代が早すぎたんだ。  片岡 補足すると、森永さんはオタクのことを書いていますが、本人はオタクではなく、あくまでコレクターなんですよ。そこをよく誤解されて、「オタク扱いされるのは嫌だ」と言っていました。  田中 オタクとコレクターは全然違って、推しに人生を賭けるオタクに対し、コレクターは基本的に冷めています。森永さんもだいぶ冷めていて、それこそB宝館は、傍から見たら人生を賭けた一大事のようだけど、実際はそこまで入れ込んでいなかったんじゃないかな。  片岡 ものすごい収集癖はありますが、そこに神は見出さないんですよ。  田中 わかる。つまり、徹頭徹尾ヒューム的な懐疑主義なんだよね。すべての事象に距離を置き、あくまで自分が一番大事。その個人主義の徹底こそが森永卓郎の真骨頂なんでしょう。  片岡 個人主義に起因する森永イズムを象徴するエピソードがあります。『年収300万円時代』刊行前後に森永さんは会社から放逐されるのですが、会社を離れる前の森永さんは、調査研究部門のトップだったものの、外部からの依頼がひっきりなしに入り、受託調査の仕事にはほとんどタッチできていませんでした。かたや収入面では社長の年収をゆうに超えていて、それはさすがに組織人としてどうかという話になり……。  田中 まさに日本的な組織の風潮だ。  片岡 私は、体よく森永さんを放逐しようとする会社のやり方をきわめて批判的に見ていましたから、森永さんに「出て行くなら私も連れて行ってください」とお願いしたんですよ。すると森永さんは「自分一人の生活はなんとかなるけど、お前の生活までは面倒見られない」と言われました。受託調査の仕事は全部残していくから、好きなようにやれ、と。  私は、ここにこそ森永さんの個人主義の本質が表れていると思っています。つまり、徒党を作らない人だった。森永さんがグループを率いて受託調査の仕事をしていたといっても、そこは各人が各々やりたいことを実践する場に過ぎなかった。それゆえ、会社を離れるからといって、誰かに声をかけるわけでもなく、あくまで自分は自分で、と。  森永さんはよく「自分は友達がいない」みたいなことをおっしゃっていましたが、実際のところ、友達を作ろうという感覚はなかったんじゃないかな。  田中 友達付き合いに関しては自分も森永さん寄りだから、わからなくもない(笑)。  片岡 それは私も一緒です(笑)。  とはいえ、個人主義を徹底するのは想像以上に大変なことだったと思います。会社を離れて一人で身を立てていかなければならない環境下に置かれて、とにかく仕事の数をこなされて。  田中 その割には、こちらが送ったメールには即答してくれるよね。  片岡 それだけビジネスに忠実な人だったということです。だからこそ、今日挙げたほかにもたくさんの著作を出すことができたのだろうし、亡くなる直前まで精力的に仕事に取り組まれていました。  田中 最後まで獨協大学での学生の指導にも力を注いでいらっしゃいましたよね。  著作でいうと、私はてっきり『森永卓郎流「生き抜く技術」』が最後の一冊になると思っていたんですよ。副題が「31のラストメッセージ」なので。ところが、それ以降も新刊が出ているので、最終作は一体いつになることやら。  片岡 ラストメッセージどころじゃないですよね。  田中 そういえば、先日立ち寄った書店に設置された森永卓郎コーナーの前で、高校生の女の子が親御さんと一緒に、森永さんの本を手に取りながら談笑している様子を見かけました。それだけの影響力があったわけだ。森永さんは今どきの高校生も知っている、日本で一番人気のあるエコノミストだといっても過言ではないですね。(おわり)