- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: ジークムント・フロイト
- 評者: 原和之
性理論のための三論文(一九〇五年版)
ジークムント・フロイト著
原 和之
今日のジェンダー・スタディーズ/クィア・スタディーズの観点から精神分析の「ファルス中心主義」や「異性愛規範」が批判されるとき、その焦点となるのはしばしばその「エディプス・コンプレックス」の主張であり、それを軸として整理されたリビドー発達論である。ただフロイト自身の議論を時系列で辿ってゆくと、「エディプス・コンプレックス」がそうした中心的な理論的位置を占めるようになったのは比較的遅い時期であることがわかる。言い換えれば、フロイト自身「エディプス・コンプレックス」を必ずしも中心にせずにセクシュアリティを論じていた時期があり、一九〇五年の「性理論のための三論文」(以下「三論文」)はまさにそうした時期に属しているわけだが、それが現在のわれわれにとって見通しにくくなっているのは、フロイト自身が後に展開した議論の観点から、これに加筆修正を加えた版が一般に読まれているからだ。そうした中でこのたび出版された本書は、「三論文」初版の姿を光末紀子氏の達意の翻訳によって伝えるのみならず、テクストの文脈と射程を詳細に説明する石﨑美侑氏の解題、さらに近年のフロイト研究や現代思想の文脈をも参照しつつその意義を説得的に論じた松本卓也氏の解説が付されていることで、現代日本の読者が必ずしも伝統的な「エディプス」に収斂しないフロイト思想の可能性を考えるにあたり、最良の手がかりを与えてくれるものとなっている。
光末氏の「訳者あとがき」にあるとおり、フロイトによる修正は基本的に「元のテクストの合間に新たなテクストを挿入するというやり方」(本書252頁)によるもので、翻訳ではまず初版のテクストが訳されたのち、後年の段落、節、章単位の付加については「付録」としてまとめて訳出されている。これによってわれわれには、初版のテクストをそのものとして読む経験が可能になっており、そこから受ける印象も変わってくるのだが、とりわけ筆者にとって発見であったのは、やはり後年の理論展開に属する「リビドー理論」(本書154―156頁)が抜き去られたときに見えるようになった、初版での三つの章「性源域の優位と前駆的な快」「性の興奮の問題」「男と女の区別」の連続(92―103頁)である。
いうまでもなく「快原理」は精神分析の根本原理であり、これをフロイトは刺激の強いる緊張の低減ないし消失と結びつけて考えようとしていた。ただセクシュアリティのなかで「快」を考えるにあたり、彼はこれと矛盾するような、むしろ「緊張の高まり」と結びついた「前駆的な快」を考えざるを得なくなる。そしてこれが本来の――緊張の緩和による――「快」と結びつく仕方を考える、いわば快の構造論をフロイトは上記の最初の二章で展開することになるわけだが、その際参照されているのはもっぱら男性的な、射精によって完結する性的活動のあり方であった(94頁、 97頁以下)。この点にあるいは精神分析の根元的な「男性中心主義」を見て取るべきではないか。三章目の最初に、よく知られた「リビドーは常に、決まって男性的性質を持つ」(101頁)という主張があらわれることからも裏書きされる疑念だが、そうした「快」概念を裏付けるべき「性物質」の放出をめぐる理論が「子ども、女性、去勢された男性」の場合を「あまりにも顧慮していない」(99頁)という指摘からは、フロイトがその偏りに意識的であったことがわかる。そしてこの観点からは、三つ目の章「男と女の区別」で展開された議論は、女性に固有の快――その独自の構造――を明らかにしようとする試みとして理解できるだろう。これは暗黙裡に男性的であった「快原理」の「彼岸」を、女性的なものの方に求める最初期の試みと言えはしないか。この延長線上に、たとえば70年代ラカンによる女性の享楽の主題化を位置づけることはできないか。
以上は筆者自身が読み進めるなかで得ることができた見通しだが、同様に解題の石﨑氏は、フロイト初期の神経症論で鍵概念となっていた「誘惑」の含意が「三論文」で変化していることに注目し(202―207頁)、ここからフランスの精神分析家ジャン・ラプランシュの「一般化誘惑理論」の構想につながる筋道を論じていた(211頁以下)。初版での読解は、フロイトを読みなれた者にとっては一九〇五年のフロイトと同じ時点に身を置いて、そのあり得ただろう他の展開に思いを巡らせる貴重な機会となるだろうし、初見の読者にとっては異なった時期の議論が割り込むことのない、フロイトのセクシュアリティ論への素直な導入となるだろう。立場を問わず、この問題に関心を持つすべての方に、手に取っていただきたい一冊である。(光末紀子訳・石﨑美侑解題・松本卓也解説)(はら・かずゆき=東京大学大学院教授・西洋思想史・精神分析)
★ジークムント・フロイト(一八五六―一九三九)=オーストリアの心理学者・精神科医。
書籍
書籍名 | 性理論のための三論文(一九〇五年版) |
ISBN13 | 9784409340653 |
ISBN10 | 4409340654 |