2025/12/19号 8面

政治学

政治学 吉田 徹  選挙の一票で政治は変わり得るのだ、ということが久々に多く実感された1年ではなかったか。もちろん、「正しく」投票することは難しい。かつて天皇が口にした、「民度」という、聞き慣れてはいても漠とした用語を手掛かりに日本の有権者と政治の関係を計量的に探るのは善教将大『民度』(中公新書)だ。解像度が上がるにつれ、全体的な理解度が下がるのは科学の常だが、情報の波に溺れつつ、有権者がそれなりに懸命な判断を下そうとしている姿が浮かび上がる。ただし、ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学 上・下』(玉手慎太郎ほか訳、勁草書房)は、もっと辛辣だ。すなわち多くの有権者は政治の基礎も知らなければ、何のために投票しているのかも理解していない。この問題提起を受けて、山口晃人『エレクトクラシー・エピストクラシー・ロトクラシー』(名古屋大学出版会)は、「知者」や「抽選」による民主政を具体的に構想する。  『民度』でも触れられているが、若年層に政治知識はなくとも、まともな判断力は備わっている。民主主義論において等閑視されがちな「年齢・世代」に注目するのが鵜飼健史『民主主義の死角』(朝日新書)だ。6歳児にも投票権を与えることを検討することが、日本の潜在的な民主化のさらなる可能性なのだ、という主張は清新に聞こえる。  そんな寛容の精神はどこに向かうのか。寛容こそが民主政の敵を生み出すという理路を説明するのは佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代』(有志舎)と保井啓志『権利の名のもとに』(東京大学出版会)である。前者は、東欧を中心にジハード主義と反ジハード主義が反リベラルという点で通底し、後者はイスラエルでリベラルな価値(「ホモナショナリズム」)が、その神話的な先進性ゆえ、排除の論理と表裏一体であることを浮き彫りにする。  両書ともにナショナリズムと新自由主義の相互連関性に敏感だが、ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(関美和訳、集英社)は、その両輪を拒否するための理屈を徹頭徹尾、展開していく。もっとも「クラウド資本主義」へと姿をすっかり変えてしまった資本主義に対抗する術がコモンズを目指す「クラウド封臣よ、団結せよ」というのは、やや素朴に響く。  温故知新、過去の革命はどうだったか。その手掛かりを得るにはジャック・A・ゴールドストーン『革命』(岩坂将充訳、白水社)が参考になる。少なくとも、革命がバラ色に彩られるものではないことは本書に加えて、俗にサッチャー革命とも呼ばれる70年代以降のイギリスを中心に扱った長谷川貴彦編『サッチャリズム前夜の〈民衆的個人主義〉』(岩波書店)でも確認することができる。花開いた個人(サッチャーでいえば花開いた女性政治家か?)は、そのまま新自由主義とモラリズムへと絡めとられていった。ほぼ半世紀が経った今でもサッチャー革命の評価が定めにくいことは池本大輔『サッチャー』(中公新書)でも追認される所である。  そのサッチャーが目の敵にしたのが労働組合だった。アラスター・J・リード『イギリス労働組合史』(齊藤健太郎訳、法政大学出版局)は、労組がリベラルな運動だったという観点から、制度的・文化的特徴を読み解いていく。もっとも著者はそれゆえに、革命の担い手としての組合の未来には期待していない。  時代をさらに遡れば、戦間期にはファシズムという革命もあった。マイケル・マン『ファシストたちの肖像』(横田正顕監訳、白水社)は、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、スペインのファシズム体制を通時的に比較した大冊だ。これらは近代にまつわる問題と社会的危機という2つの課題に対する対応の結果として現れたものだという。これに対する真摯な理論的提案こそがシュミットの民主主義論だったことは松本彩花『独裁と喝采』(慶應義塾出版会)で仔細に検討されている。果たして我々は、再現する危機に選挙などでもって対応できると、まだ信じることができるのだろうか。(よしだ・とおる=同志社大学政策学部教授・政治学)