2026/04/24号 5面

「リュミエール兄弟の映画の再考」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)434(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 434 リュミエール兄弟の映画の再考  HK エイゼンシュテイン、シュトロハイム、チャップリン、キートン、フォードなどは、「作家主義」とはあまり結びついていなかったように思います。どちらかというと、ジャック・タチ、ジャック・ベッケル、マックス・オフュリュスなどに結びついていたのではないでしょうか。  JD タチ、ベッケル、オフュリュスは、ヒッチコックやホークスの後の話です。フォードに関しても、『カイエ』では後から作家として取り上げています。フォードについてはよく覚えています。『カイエ』の内部で、フォードを作家として初めて取り上げ、記事を書いたのが私だったからです。チャップリン、キートンなども作家として擁護されています。しかしながら「作家主義」の出発点にあったのは、ヒッチコックとホークスです。なぜか。そこには、映画批評としての戦略的な意図があったからです。ちなみに、その「戦略」は、現在の『カイエ』や映画批評からは失われてしまったものです。  HK 「戦略」的になれないのは、現在あまりにも見るべき作品が増えていることと結びついているのではないでしょうか。同時に現在の『カイエ』や『トラフィック』では、過去の歴史に関する扱いが強くなっています。過去に引きずられているのは、映画批評だけではなく、映画監督やシネマテークも同じです。いわゆる「映画作家」の作品というと、ノスタルジックなものが増えている印象があります。シネマテークも過去についてばかり取り上げていて、現在の映画を取り上げることは少なくなっています。そう考えていくと、映画批評ではなく映画研究が重視されるようになっていることや、研究者などから現在の映画批評が軽視されていることと結びつきがあるかもしれません。  JD 現在の状況をとてもよく言い当てています。私の言い方で言い換えるならば、今日の映画の世界では、映画そのものに関心を持つ人がとても少なくなった。それとは反対に、映画の周辺に関心を持つ人が増えた。つまり、映画が本来的に持つ役割に関して考える人がとても少なくなっているのです。  HK 映画が本来的に持つ役割とは何だと考えますか?  JD その役割は、ひとつではありません。非常に多岐にわたっています。それは「生」を見せることでもあるし、映画という表現自体が持つ可能性を切り拓くことでもあり得ます。それぞれの映画作家なりの正解があります。全ての偉大な映画作家は、各人の方法において「生」を示し、また映画の可能性を探求してきたとも言えます。映画という芸術において素晴らしいのは、そうしたことが一挙に与えられることです。  HK 今は「作家主義」の映画が減ってきていると考えられていますか。  JD そのように言ってもいいでしょう。今日の映画は、巨大な映画産業やテレビ局などによって支えられています。作家の映画がこれから先なくなるとは言いません。毎年のように、面白い映画は僅かながらでも発表されていますし、これからも作られていくはずです。しかしながら……以前の映画と比較すると……現在でも僅かながら残っているような偉大な作家と比較すると……非常に操作的になっています。私の個人的な意見ですが、今日映画を志す人たちは、生をおざなりにする傾向が強い。映画のことばかり考えているようでいて、映画そのものを忘れています。  HK それは、映画の周辺のことばかりを考えているということでしょうか。  JD そうです。度々リュミエール兄弟を例に取り上げますが、彼らの映画について再び考えてみる必要があります。リュミエール兄弟の時代には、今日のような映画は存在していませんでした。彼らが発明したのは写真を連続して撮影し、それに加えて投影する機械です。その時代には、まだ映画を縛る規則はありませんでした。唯一あったのは、機械的な制限だけです。ダゲレオタイプのような巨大なカメラを三脚の上に乗せて、撮影しなければいけなかった。その物理的な制限のせいであまり多くのことはできませんでした。自らの目の前にある被写体と向き合わなければいけなかったのです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)