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【特別コラム】司法の判断停止と避難者切り捨てにどう立ち向かうか——「最高裁六・一七判決」がもたらしたもの <佐藤嘉幸氏が聞く脱原発シリーズ#10>

【特別コラム】司法の判断停止と避難者切り捨てにどう立ち向かうか——「最高裁六・一七判決」がもたらしたもの <佐藤嘉幸氏が聞く脱原発シリーズ#10>

司法の判断停止と避難者切り捨てにどう立ち向かうか——「最高裁六・一七判決」がもたらしたもの
福島原発訴訟かながわ原告団団長・村田弘さんに聞く

 二〇一一年三月一一日に起った福島第一原子力発電所事故の被害をめぐって、未だ被害者は過酷な状況に追い込まれている。かつて住んでいたふるさとに戻ることのできな避難者が大勢いるばかりではなく、「損害賠償請求集団訴訟」に対して、一昨年六月一七日に下された最高裁判決では、原発事故における国の賠償責任を否定した。それ以後、地裁・高裁では、同様に国の責任を否定する判決が続く。また原発事故災害関連死や自死の数も増えている。今も継続中の裁判と避難者の現状について、福島原発訴訟かながわ原告団団長の村田弘さんにお話をうかがった。聞き手は佐藤嘉幸氏にお願いした。(編集部)

「司法の劣化を許さない共同行動」、最高裁を取り囲む約950人の人々(2024年6月17日、撮影=山根昭平)

最高裁判決のコピー判決

佐藤 村田弘さんは、福島県からの避難当事者として、福島原発かながわ訴訟原告団団長を務められています。今年一月二六日、この訴訟の高裁判決が出ました。まずこの点からお話を伺います。この判決の最大の問題は、福島第一原発事故に対する国の責任を全面否定しているということです。その論理は、国家賠償を否定した一昨年六月一七日の最高裁判決(六・一七判決)のほぼコピーになっています。判決要旨の関係箇所は次の通りです。

「経済産業大臣が、電気事業法四〇条に基づく規制権限を行使して津波による福島第一原発の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを一審被告東電に義務付け、一審被告東電はその義務を履行していたとしても、当該規制権限の行使の内容や、これを受けて一審被告東電が採る措置の内容は、本件試算津波(一審被告東電の関連会社が、長期評価に基づいて福島第一原発に到来する可能性のある津波を評価し、その高さ等を試算したもの。本件試算津波の高さは、本件敷地の南東側前面において本件敷地の高さを超えていたものの、東側前面においては、本件敷地の高さを超えるものではないとされていた。)と同じ規模の津波による本件敷地の浸水を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置するという措置に係るものとなったと認められる。/そうすると当該防潮堤等は、本件敷地の南東側からの海水の侵入を防ぐことに主眼を置いたものとなり、本件津波の到来に至って大量の海水が本件敷地の東側から本件敷地に侵入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に侵入し、非常用電源設備が浸水によりその機能を失うなどして本件各原子炉施設が電源喪失の事態に陥り、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当程度あると言わざるを得ない。」

村田 今読み上げていただいた部分は、最高裁六・一七判決の結論とまったく同じです。まさしくコピーそのものです。ここで「試算津波」と言われているものは、二〇〇二年の長期評価に基づいた予測を前提にしています。ところが、かながわ訴訟で主な争点となったのは、それ以後の二〇〇八年ないし二〇〇九年の予測についてです。八六九年に仙台平野を襲った貞観津波の痕跡調査が進んで、報告書が国にも上がってきた。その時点で、(高裁判決が主張する敷地の南東側のみならず)東側についても、敷地を超える津波が来る可能性が非常に高いとされた。この予測に基づけば、国が何もしないでいたことには責任がある。これが二〇一九年の一審横浜地裁判決です。二〇〇二年からの七年間で、万が一にも大事故を起こさないように、津波対策を採る必要が明確になったし、明らかに二〇〇二年の状況とは違います。しかも高裁で我々が主張したのは、明らかに浸水する可能性があったんだから、できることをやらなければいけなかったということです。その中には、一審判決であった、主要電源の高所移転や水密化も含まれます。そういうことも含めて、横浜地裁は国の責任を認めたわけです。

 控訴審では、電源の水密化も含めて対策を取ることができたことを強く主張しました。ところが、判決はその点を完全にスルーしている。次元の異なる二〇〇二年の予測を前提にした最高裁の判決を、そのままコピーした形になっているわけです。肩すかしというよりは、審理の過程を完全に無視した結論になってしまっている。なぜ、そんなことになってしまったのか。明らかに裁判官は六・一七判決を踏襲することを避けられなかったんだと思います。六・一七判決以降、我々の判決は高裁で六件目ですが、その前の五件も全部最高裁判決のコピーになっている。そうした大きな流れに乗っかった結論だった思います。

佐藤 六・一七判決以前には、国の責任を認めるか否かの判断が、地裁段階ではほぼ半々に分かれていました。しかし同判決が出てしまったがために、続くすべての判決が、ヒラメのように一方向を向くようになった。最高裁判決が出たため、その内容に塗り替えられてしまったということです。しかも論理が非常におかしい。国は東京電力に対して、何ら規制権限を行使しなかった。それにもかかわらず、たとえ権限を行使していたとしても事故は防げなかったのだから責任はないと言っている。何もしていなければ責任はあると考えるのが普通です。

村田 一番おかしな点はそこです。原発事故のような重大な問題で、そういう論法を使うこと自体が信じられません。子どもでもわかる話です。「たとえ夏休みの宿題をしていたとしてもテストの点は低かっただろうから、宿題をしていなくても問題ない」と言っているようなものです。原発損害賠償請求の集団訴訟の判決は、二〇一七年頃から出始めています。最高裁の判決が出るまでの五年間に一九の地裁判決が出ている。そのうち九つが国の責任を認めていて、認めなかったのが一〇です。地裁レベルでは九対一〇に分かれていた。高裁で六・一七判決の対象になった四つの判決のうち三つは国の責任を認めている。高裁では三対一だった。それを最高裁が見事にひっくり返してしまった。以降、地裁レベルでは四つ、高裁では八つ、計一二の判決がすべて最高裁判決をコピーする形になりました。裁判官が判断停止したとしか言いようがありません。原告側はそれぞれの裁判で、膨大な証拠を提出して立証を行っています。その事実に基づいて判断したのではなく、最高裁判決の結論だけをコピーしてしまったということです。

 笑ってしまうエピソードがあります。昨年一二月二二日、千葉訴訟第二陣に対する高裁判決が出る際、弁護団と裁判所のあいだで激しいやり取りがあったんです。通常、判決の言い渡しのときには判決要旨を読み上げますね。その要旨を出さないから、弁護団が再三文句を言ったんですが、裁判長は最後まで拒否した。閉廷後に、弁護団が判決文全文をもらって、その理由がよくわかりました。要旨が必要ないということです。判決文自体が最高裁判決のまったくのコピーだった。ページ数も同じです。それほどまでに判断停止している。

 かながわ訴訟判決でも、貞観津波に関するこちら側の主張について、きちんとした判断をしませんでした。学者の意見をいくつか引用して、結論としては、貞観津波の知見に基づく予見可能性等について「未熟な調査」だと、わずか一ページぐらいの短い記述で撥ねつけている。こちらが立証してきたことについて、否定するならその論拠を書くべきなのに、一番主要な部分について何も書いていない。どう考えても、まともな裁判とは言えません。

佐藤 まさに司法の危機ですね。

村田 そう思います。最高裁第二小法廷の六・一七判決自体、大きな問題がありますが、問題なのは地裁・高裁レベルの裁判官まで、その影響が及んでいることです。少なくとも裁判官は、事実・法理に基づいて独立して判断することが保証されているはずです。現にあの判決が出る前までは、地裁・高裁の判事たちは、それぞれ自分たちで判断していました。国の責任を認める/認めない、両方の判決がありましたが、判断はしていたわけです。そういう判断がまったくなくなってしまった。それが司法の世界で今現実に行われていることです。そこまで落ちたのかと、これが一番のショックでした。

六・一七判決は明らかな法令違反である

佐藤 個々の審理の意味がまったくなくなっています。提出された様々な証拠が、判決では完全に無視されてしまった。しかも、論理とも言えない稚拙な理屈に基づいた六・一七判決によって、それ以降の判決がすべて塗り替えられてしまった。一体何のための裁判なのか。何を審理しているのか。司法制度自体が、根底から揺らいでいるとしか言いようがありません。

村田 我々の裁判は、およそ一〇年やってきました。この段階ではっきりしてきたのは、司法の劣化ということです。男女別姓に関してや同性婚といった今のトレンドに関わる問題については、司法もそれなりに判断したりしますが、こと国の政策に関わると、判断停止の判決が続いている。そういう司法の今の姿を露呈させたというのが一つの大きな成果だった。皮肉なことだけれど、そう思わざるを得ない状況です。

佐藤 しかも、六・一七判決の前段階の高裁判決では、三対一で国家賠償を肯定する判決の方が多かった。それ故、最高裁でも国家賠償が認められるんじゃないかと国側もかなり恐れていた、という報道がありました。けれども司法が自発的に服従してしまった。

村田 六・一七判決の問題点として、専門家の皆さんも含めて指摘されているのは、一つには国家賠償法の解釈をまったく踏まえていないということです。国家賠償法においては、どういう法規制があって、それについて何をする必要があると判断したのか、実際に対策をしたのかが、予見可能性をめぐって問題とされます。今回の場合、原子力基本法等の法令の趣旨・目的に則って、万が一にも事故を起こしてはならない。そのことを踏まえて、どのような対策がなされていたのか。そして対策をした結果、どうしても効果がなかったのならば、それは有効ではないとする。そういう二段構えの法規制になっている。ところが六・一七判決は、第一段階の国家賠償法が定める前提について、まったく判断していないんです。その点をスルーしている。言ってみれば、三階建ての一階部分を無視して、三階の結論だけにたどり着いている。そういう法律上の問題があります。

 もう一つ。六・一七判決は明らかな法令違反だと、法律の専門家が指摘しています。民事訴訟の三二一条には、最高裁は下級審、高裁の事実認定に拘束されるときっちり書いてある。ところが六・一七判決で言っている、事故を防ぐには防潮堤を作るしかなかったという点は、対象になった四つの高裁判決の中では一切言っていません。最高裁独自の認定なんです。これは明らかに民事訴訟法に違反する判決である。そんな指摘がなされています。非常に重い指摘だと思います。また、伊方原発の運転停止を求めた裁判に対する伊方最高裁判決では、「原発は、事故を起こした場合の被害の重大性を考えれば、事故が万が一にも起こらないように、最新の知見をもとに規制されなければならない」とされた。それは判例として残っているわけです。六・一七判決はそれにも反している。大きく言って今の三つの法的問題があり、論理的にも非常におかしな判決だということです。

 さらに言えば、判決を下した第二小法廷は、長官を除く四人で判断しています。六・一七判決は三対一の多数決だった。菅野博之裁判長、草野耕一判事、岡村和美判事が多数意見、反対意見は三浦守判事です。ただ、三浦反対意見が全判決文五〇数ページのうち三〇ページぐらいある。こちらは最初から論理的に、国家賠償法の理屈からはじまって全部書いてあるんです。この反対意見だけが判決の体裁を成していた。六・一七判決の背景についても指摘しておきます。ジャーナリストの後藤秀典さんが調べたところによると(『東京電力の変節』、旬報社、二〇二三年)、草野さんは、最高裁判事になる前は、西村あさひ法律事務所という巨大法律事務所の代表者だった。菅野裁判長も、判決を出した一ヵ月後に別の巨大法律事務所に天下りしている。これらの法律事務所は、国や東京電力を弁護する弁護士をたくさん抱えている。最高裁の公正さという基準から、明らかに逸脱しています。

佐藤 少なくとも草野さんは、東電の利害関係者に近いということですね。

村田 草野判事を外してくれと、東電刑事訴訟支援団の皆さんはずっと要請行動をやっています。明らかに公正らしさを疑われるわけですからね。加えてもうひとりキーマンがいるんです。千葉勝美元最高裁判事です。この人が最高裁の事務総局にいたとき、菅野さんの上司だった。後藤さんは、そういう関係も明らかにしている。その千葉さんが、この訴訟に関わる意見書を出しているんです。その内容たるや、恐るべきものです。「①東電賠償の対象となる被害者一六万人のうち、訴訟提起に至ったのはわずか一万三千人に過ぎない。文句を言っているのは一%に満たない〇・八%の人である。ほぼ一〇〇%に近い人たちが、国の中間指針と東電の自主賠償基準に納得している。②将来的に本件のごとき大規模な事故や災害が発生した暁には、真っ先に採用が検討されるべき貴重な司法救済の遺産とも言うべきものである。③このような状況下で、裁判所が中間指針等及び自主賠償基準の指針・基準の正当性を否定する判断を下すことになれば、また紛争が再燃し、追加の損害賠償請求の訴訟の大量提起が予想され、そこで再び追加賠償の適否が白紙から争われることになりかねない。④そうなれば、大量の賠償請求を迅速、公平、適正に処理できたこの司法救済スキーム自体が否定されて、文字通り、すべてが最初からやり直しになるという異常事態を生じさせることになる。」こんな意見書を出している。つまり原発賠償については、今出ている国が決めた枠組みでいい。もしその枠組みをいじると、また裁判が起きてどうしようもなくなると言っているようなものです。脅しそのものです。そんな意見書を、後輩が担当している裁判に関して、元最高裁判事の肩書きをつけて出している。そして、この千葉意見書を汲んでのことだと思いますが、菅野さんが判決の中で何を言っているのか。原発事故については、本来は国に責任がある。しかし賠償を命じるか命じないかに関しては、やるべきことをやったかやらないかで判断するのであって、また別問題である。こういう無茶苦茶な論理で賛成意見を書いているんですね。

佐藤 千葉勝美氏も現在巨大ローファーム、西村あさひ法律事務所で顧問をしています。草野判事が以前に所属していた事務所です。先ほど「自発的服従」と言いましたが、その要素に加えて、東電の利害関係者が最高裁に大きな力を及ぼしている。その意味では、単なる自発的服従とは言えません。

村田 後藤さんもおっしゃっていたけれど、最高裁には第一、第二、第三小法廷がありますが、いずれも弁護士出身者が入っている。四月一〇日にあったいわき市民訴訟の上告棄却が第三小法廷で、四対一で上告を受け付けなかった。行政法の大権威である宇賀克也さんだけが反対意見を述べています。残りの四人が賛成意見で、その中に巨大法律事務所出身の弁護士がいることを、後藤さんが指摘していました。そういうことも含めて、最高裁自体も、国家政策と関わるものに対しては、完全に独自の判断をすることを放棄しているんじゃないでしょうか。原発の賠償問題だけではない。沖縄・辺野古の埋め立てや、いわゆる「戦争法案」にしてもそうです。国家の政策に関わると考えられるものについては、判断が完全に後ろ向きになっている。確かに六〇年代にはそういうこともありましたが、その後政治情勢があまり緊迫していなかったこともあり、目立つことはなかった。ここに来て、不安定になってきた政治情勢に乗じるかたちで、後ろ向きになってきています。

 本来ならば、司法の最終着地点である最高裁が目指すのは、人権を守ることです。憲法に従えば、まさに人権の最後の砦です。国家政策と人権を天秤にかけた場合、必ず人権に則って判断する。それが司法にかけられた期待でもある。その原則に完全に背きつつある。そのことが心底怖いですね。

かながわ訴訟高裁判決の二面性

佐藤 今言われたように、いわき市民訴訟では、最高裁が上告を棄却しています。今後も同様のことが起きる可能性があるわけですね。

村田 そうです。いわき市民訴訟は、六・一七判決後の最初の判決でした。仙台高裁の小林久起裁判長は、つい先日亡くなられましたが、彼の判決は事実関係を見ていました。東京電力に対して、経済性を重視して人命を軽視したと、かなりきちんと言っていたんです。国を相手にした昨年三月一〇日の判決でも、前段ではそういうことをしっかり言っていました。しかも明確に二〇〇三年以降八年二ヵ月にわたって何もしなかった。これは明らかな違法であると書いている。ただ、そこまで書きながら腰折れで、国の責任を否定してしまった。これは、繰り返し述べてきたように、六・一七判決に結論だけを合わせてしまった判決だということです。

 いわき市民訴訟の訴訟団は、昨年四月以降、毎月最高裁に要請行動をしていました。その趣旨は、この訴訟単独で判断しないでくれということです。これから高裁では続々と判決が出るんだから、ある程度まとめて判断してほしいということを言っていた。あの門前払い判決が出る前までは、一緒に判断してくれるんじゃないかという楽観論もありましたが、突然バッサリと門前払いされてしまった。これまた政治的な判断だったと思います。

佐藤 今後こういうことが続かないために、司法を監視していく必要があると思います(六月一七日に、最高裁を「人間の鎖」で取り囲む「司法の劣化を許さない六・一七最高裁共同行動」が行われました。最後にその点をお話しいただきます)。

かながわ訴訟高裁判決の話に戻ります。国家賠償については否定する。他方で、賠償額の積み増しや、ふるさと喪失慰謝料を認めた。あるいは二〇ミリシーベルト以下の避難指示区域外からの避難者(以下「区域外避難者」)に対する賠償も認めています。この二面性についてはどうお考えですか。

村田 国の責任に関する書きぶりと、損害賠償に関わる部分の書きぶりが、筆使いからして違うんです。さっき言ったように、国の責任についての前半部は、さらっとした説得性のない書き方をしている。後半はかなり柔らかい。被害者の状況をちゃんと見ている。一番大きかったのは、放射線の影響に対する見解についてです。一〇〇ミリシーベルト以下の放射線に関してはまったく影響がない(いわゆる一〇〇ミリシーベルト閾値説)、これが国・東電側の主張です。ここが一つの大きな争点になっていた。かながわ訴訟の場合、最初から損害論では、そこに力点を置いていました。少なくとも一般の人の許容限度は年間一ミリシーベルトである。これは国際基準です。また一〇〇ミリシーベルト以下でも影響があるというLNT(直線閾値なし)モデルは、広島・長崎のLSS調査(被爆者寿命調査)の結果でも認められています。だから放射線の影響があることを認め、避難指示があったかないかで区別するのではなく賠償せよと、こういう論理で進めてきました。一審判決は、国の責任については、かなり明確に言っています。しかし損害の部分については逆で、簡単にスルーしている。損害賠償を考えるに当たっては、放射線の影響を考えなくてもできる。その一言です。担当していた小賀坂徹弁護士は、そこを覆そうと頑張った。その結果、今度の判決では判断が覆っています。つまり、閾値説を否定して、避難の基準になっている二〇ミリ以下でも、健康に対する不安を感じるのは当たり前であるとしています。二〇ミリ以下の地域から避難した人についても、避難の合理性が認められるとしたわけです。今までの地裁・高裁の判決の中でこのように明確に言い切っているのは唯一です。そこは評価できます。

佐藤 LNTモデルを採用したのは画期的ですね。一〇〇ミリシーベルト閾値説が、当たり前の常識のように、裁判でも繰り返されることが続いていました。それを明確に否定して、二〇ミリシーベルト以下の地域からの避難者についても、健康不安は理解できるとした。

村田 ところが、区域外避難に関して、実際出した賠償額は一審と同じで、その額を変えることはなかった。ただ、放射線被害に対する恐れについて理論的に認めたところが、残っている他の裁判に対してプラスの影響を与えるのかどうか。特に京都訴訟は区域外避難者が九八%ですから、かながわ訴訟と並んで、そこにかなり力を入れてやってきている。こちらは今年一二月一八日に判決が出ます。

切り捨てられた被害者/ショック・ドクトリン

佐藤 次の話題に移ります。避難者の現状はどうなっているのか。村田さんは、避難者支援の面でも活動されています。顕著な問題点として何が挙げられますか。

村田 切り捨てられた被害者が大勢いる。これが大きな問題の一つです。住宅を追い出されようとしている人たちがいるということです。それと健康問題ですね。これは今最高裁に上がっている子ども脱被ばく裁判に通じることですが、放射線の健康への影響、被害があるのか、因果関係があるのかどうかという問題です。東電は東電として、国は国として、断固として影響がないと言う。鼻血問題も含めて、福島県の県民健康調査検討委員会をはじめ、放射線の影響は一切ないと、県内でも大キャンペーンを行っています。子どもたちには学校で『放射線副読本』で教えたりしている。これからのことを考えると、最大の焦点になってくると思います。これは日本の政府の問題だけではなく、バックグラウンドがあります。国際的な原子力推進勢力はチェルノブイリの後、健康被害についてしっかり抑え込んだ(唯一の例外が小児甲状腺ガンです)。健康被害が認められてしまうと、原発推進ができないからです。福島第一原発事故後は、小児甲状腺ガンの健康被害さえ抑え込もうとしていますが、福島県の県民健康調査によれば、この五月に出た数字だと、小児甲状腺ガンが、疑いを含めて三七二人まで増えている。普通は一〇〇万人に一人か二人です。当時の福島県の一八歳未満の人口は三六万人です。そこで三七二人の甲状腺ガンの疑いが出ている。しかも、調査をすればするほど人数が増える。この実状を見て、いつまで因果関係がないと言い張れるのか。

佐藤 原発事故直後、県民健康調査検討委員会は、大規模に調査したから、原発事故とは関係のない甲状腺ガン患者が出てきただけだと言っていました。その論理によれば、ある時点で甲状腺ガンは増えなくなるはずです。第一回調査で患者が発見されれば、二回目、三回目以降では増えないはずです。しかし、第五回の今も、患者は依然として増え続けている。そう考えると、原発事故の影響であると考えるのが自然です。

村田 疫学的に言えば、疑いの余地はないと思います。

佐藤 この点についても、国が事実を否認する形で、原発事故の健康影響を否認し続けている。異常な事態です。

村田 国が頑なになるのはわかるんです。ここを突破されてしまうと、甲状腺ガンと白血病だけでなく、他の多くの放射線の影響にも関わってくるからです。最近問題になっているのは、福島県で、心筋梗塞や脳梗塞、循環器系の病気で亡くなる方がかなり増えていることです。統計に依拠しているものではありませんが、実感としてそういうことがあり、これも原発事故の影響なんじゃないかと思っています。二〇ミリシーベルというのは通常の基準の一〇倍以上であって、そうした放射線量の高い地域に住んでいいと言われて、十数年も住んでいるわけですから、健康被害が出ることは明らかです。広島・長崎の原子爆弾による被害だって、七〇年経ってもまだ出ている。それと同じことです。けれども、それを認めてしまうと、原発を維持することができなくなる。これが国側の大きな一つの懸念だと思います。だけど我々普通の国民、市民の側から言えば、命に関わる問題です。今は彼らも力づくで抑え込んでいますが、最終的には抑え込めなくなると思います。被害がこれだけはっきりしているんだから、国がもっと早めに健康被害の対策に手をつけること、これが大きなポイントだと思います。

佐藤 被曝の影響で晩発性障害の可能性があるはずなのに、一方で医療支援は段階的に打ち切られている。広島・長崎の被爆者が健康手帳という形で守られているのとはまったく違います。子どもの甲状腺ガンについても、成人すれば医療支援はなくなる。これも大きな問題です。事故当時の子どもも成人していっている。医療支援がないと、発病したときにどうすればいいのか。再発の可能性(実際に起こってもいる)も含めて非常に深刻です。

村田 結局は法的責任の問題になってくると思います。それを前提にしないと、医療の援助にしても、行政側の匙加減一つになってしまう。つまり、援助するしないは各自治体が勝手に判断して行う、ということになってしまう。それを避けるためには、この事故に対する責任は国にあるという法的責任をベースにしないといけない。そうしなければ救済も一切進みません。
 その点で言うと、僕らが一〇年余り間裁判を続けてきて、同時にもう一つ大きな被害を受けたと思っているのは、国の政策に関してなんです。二次被害と言ってもいい。避難者に対して、被害を認めて何とか対策を行おうという政策になっていない。逆に、被害をなるたけ早く見えなくしようとしている。「復興政策」はそうやって一三年間進んできたわけです。ある時期までは、安倍晋三首相がオリンピックを御旗にして、開催時までには全部解決すると、威勢よく公言していた。内堀雅男福島県知事もそれに乗っかって、二〇二〇年には避難者をゼロにするという政策を掲げていた。そういうことが関係しているのか、避難指示の線引き自体もおかしかったんだけど、それすら次々解除して、住民を帰そうとした。帰れる住民がいなければ、今度は別の場所から人を連れて来て復興しようとした。本当にむちゃくちゃな話です。

 この事故の原因はどこにあるのか。国が国策として進めてきた原発にある。ならば第一義的には国に責任があるのだから、お金だけではなく、制度も含めて政策としてきちんと整備すべきです。それをやらなかった典型が、子ども・被災者支援法ですね。この法律では、国の法的責任までは記されていませんでしたが、実質的な責任は認めて、生活に関わるものについては手を打つという理念を作った。それも、あっという間に棚晒しになってしまった。被害を認めて被害者を救済するという当たり前の基本が、今の政府では完全に二の次になっている。その代わりに、復興のためだと言って実際にやっていることは、訳のわからない怪しげなことばかりです(例えば、福島イノベーションコースト構想)。いわばショック・ドクトリンであって、原発事故を利用して、まったく別のことを今やろうとしている。

原発政策を一八〇度変えたGX脱炭素電源法

佐藤 六・一七判決で原発事故に対する国の責任が否定されましたが、これは単に最高裁の一判断にとどまらず、国の政策にも大きな影響を与えている。つまり、国が原発事故から人々を守らなくていいということを追認してしまった。

村田 六・一七判決がどういう効果をもたらしたか。ここまで言ってきたことは、我々原発事故被害者に関することなんですが、国の政策に関わることで言えば、現在進められている原発回帰政策と密接に結びついていると思います。時系列で見ても、それはわかります。大島堅一さんが『ノーモア原発公害』(旬報社、二〇二四年)で、そのことをきっちりトレースして書いています。判決が出る一ヵ月前には、経産大臣が国会の委員会で、従来の原発に関する方針を維持すると答弁していました。しかし判決を挟んで、岸田首相が何をしようとし始めたのか。七月には、原発が次のエネルギー政策の中心になることを前提として、法案をまとめるよう指示した。そのGX脱炭素電源法は年末には閣議了解、翌二月に閣議決定、三月法案提出、五月には強行採決に至った。今までの原発政策を一八〇度変えてしまったわけです。六・一七判決とこの法案と、どこが直接関係あるのかと言われれば、はっきりと断言までできませんが、原発事故に関して、最高裁が国に責任がないとお墨付きを与えた。少なくとも、その判断は非常に大きい。GX脱炭素電源法によって、原子力基本法にどういうことが新たに書き込まれたのか。原発は事故を起こす。今までは安全神話に乗っかってきて、それで事故を起こした。そのことを反省した上で、今後も原発を大事にしつつ、老朽原発も含めてどんどん活用していく。そういうことまで原子力基本法に書き込ませた。その文面と判決が示し合わされたものだとは言いませんが、明らかに最高裁判決が影響を与えたことは事実だと思います。

佐藤 最高裁が福島第一原発事故に対する国の責任を否定することによって、原発回帰政策を今までよりもっと露骨に推進してもいいというお墨付きを与えてしまった、ということですね。

村田 そうです。『私が原発を止めた理由』(旬報社、二〇二一年)を書いた、元裁判官の樋口英明さんがいつも言っていることですが、国は原発というものの本質を見誤っているんじゃないか。原発は飛行機や電車など普通の産業構造物とは違う。一旦事故を起こしたら、その現場だけではない、時間的・空間的に甚大な被害に繋がる。それを通常の感覚で捉えてはいけない。原発政策の前提として考えなければいけないのは、そこだと思います。一九六六年当時、国が原発政策を進めていく方向で審議会を開いたときも、一旦事故を起こしたら国会予算の何倍もかかると、委員の方がきちんと明言していたわけです。それだけではありません。この前の東電株主代表訴訟の判決を見てみてもいい。「次に事故を起こしたら、日本は壊滅する恐れがある」とまで、裁判官が書かざるを得なかった。それほど重大な問題なのに、いつの間にか司法も、軽自動車みたいな感覚で原発を捉えるようになってしまった。そこに最大の問題があると思います。

佐藤 『脱原発の哲学』を田口卓臣さんと共著で書いたとき、私たちは、原発事故は戦争の被害に匹敵するというテーゼを立てました。実際、福島第一原発事故によって、数十万人単位で国内避難民が生じる状況が出現したわけで、まさに戦争に匹敵する事態です。人々、環境、経済に対する大きな被害、いずれも普通の事故のレベルでは解釈できない、桁違いに大規模なものになるということです。

村田 そうですね。公害問題を一九七〇年代から見てきましたが、原発事故は、人権を侵害する、人体を損傷するという意味では、公害とまったく同じことなんだけれど、それにとどまらない。放射線被害の怖さは、時間軸が全然違うわけです。三基の原発が起こした事故で放出された放射性物質の量は膨大であり、放射性物質は今も放出され続けている。汚染水の排出にしてもそうです。止むことがない。そして一旦放出されたセシウム137は半減期が三〇年、完全になくなるまで三〇〇年かかる。時間の長さと空間の広さ・深さ、他には類がない。実感できるのは、広島・長崎の原爆被害ぐらいしかありません。それほどの大変なものを扱っているにもかかわらず、今の行政はお手玉みたいに軽く扱っている。そのことを司法がどう見るのか。現状にストップをかけられるのは司法しかないんだから、「おかしい」、「間違っている」と糺してくれなければいけない。国会を見ていればよくわかりますが、今の立法の体たらくではどうしようもない。行政も正しく機能していない。そんな中で危ない政策が進もうとしているんだから、司法がきちんとチェック機能を果たさなければなりません。

 福島の原発事故を前提にして考えると、もし次に同じような事故が起きれば、本当に国が滅びてしまうかもしれない。このあいだの能登半島の地震が起きたとき、もし震源地に近いところに原発があったらどうなったのか。みんながゾッとしたわけです。稼動していないものも含めて五四基もの原発がある。それを考えれば、司法に正気を取り戻してもらわないと、福島で事故にあった人だけでなく、これから未来に生きる人も含めて、まさに命と生活に関わる問題です。

佐藤 GX脱炭素電源法は、六〇年以上の原発の運転まで認めたわけですから、事故の教訓は一体どこにいったのかと考えざるを得ません(原発の設計寿命は一般に三〇年から四〇年とされている)。

村田 「今だけ、金だけ、自分だけ」という名文句を思い出します。結局は再稼働をしたい。初期投資はもちろんだけれど、その後安全対策を命じられて、数千億円の投資をした。一旦動かせば一年間で一千億円の収入となる。まさに銭金の問題だけで考えているわけです。そこにおいては安心・安全、人間に対する影響への配慮がまったく抜け落ちている。本来はそこを、国の機関で言えば、原子力規制委員会がきちっとチェックすべきだった。しかし、ここに来てまた、規制委員会も原発事故前に戻ってしまった感じがします。決まった規則に適合しているか否かだけを判断するだけです。いい例が、規制委員会の判断の中に避難計画に関わる内容が入っていないことです。世界的には避難計画まで含めて規制をする。けれども日本の規制委員会だけは、避難の部分については埒外になっていて、ほったらかしにしている。それを世間もマスコミも何とも思わない風潮になってきている。能登半島地震が起こったとき思い起こされたのは、(能登半島先端に位置し、震源地として震度六強を記録した)珠洲市にも原発を作る予定があったことです。反対運動で頓挫しましたが、もしあのまま作られていたら、住民は避難できなかった。本来ならば規制委員会が避難も含めて考えなければいけないのに、何もやっていない。本当に怖いことだと思います。

存在しないかのように扱われる避難者

佐藤 他方で、「避難者」という言葉自体をほとんど耳にしなくなっています。避難者はまったく存在しないかのように、マスコミでも取り上げられなくなってきている。実際に、賠償や経済支援の打ち切りによって、避難は終わったものとされている。避難者は現にいながらも、存在そのものが不可視化されている。そんな中で、先ほどの話に関わりますが、原発避難者追い出し訴訟が起こされている。公務員宿舎に避難した被害者に対して、「入居期限が切れた」として明け渡しと家賃の支払いを求めて、福島県が提訴した。そういうことが公然と行われている。また避難者の中には自殺される方も多数おられたと伺っています。

村田 せっかく生き残った人が、自ら命を絶たなきゃいけない。これが原発事故を象徴するものだと思って、事故当初からずっと追いかけてきました。福島の私の家から車で四〇分くらいのところに山木屋という地区があって、そこで女性がガソリンをかぶって焼身自殺した事件がありました。その頃から、避難者の自殺について調べています。厚労省がまとめた数字があって、二〇二一年までに一一九名の自殺者が確認されています。今はもう少し増えています。ただ、実際はもっともっと多いんです。どういうことか。事故後、警察庁と厚生労働省とのあいだで取り決めがあって、明らかに原発事故が原因でないと、関連した自殺者として認められない。たとえば遺書に書いてあるとか、親族がそう証言しているとか、警察が見ても、原発事故を原因にした自死だとわかる人だけを集計している。毎年の数字があって、それを見ているだけで嫌になってくるんですが、一つの特徴があります。自然災害だけの岩手や宮城と福島県の数の推移を見ていくと、時間が経てば、事故を原因に自殺する人は段々減っている。ところが、この原発事故に関しては、福島の場合が顕著なんですが、一旦減ったと思ったら、途中からまたぐっと増えたりする(避難指示解除や経済支援打ち切りの影響とされる)。それほど一筋縄ではいかないということです。徐々に人を追い詰めていくのが、原発事故なんです。

 これについては、今言われた、二〇一七年の住宅提供打ち切りの影響も大きかったと思います。住宅提供の打ち切りの直後、川崎に母子避難していたお母さんが首を吊って亡くなった。私自身、毎年命日には現場に行って手を合わせているんですが、身近にそうした実例もあります。同じく住宅打ち切りの年、高校一年生の避難者が自殺した。新潟に避難していた家族で、家計が成り立たないため、お父さんが南相馬に帰って仕事をしていた際中にです。息子さんが自殺して、お父さんも完全に人格が破壊されてしまった。個々の人々を見ていくと、本当にやりきれません……。

 私自身が告訴人になっている刑事訴訟があります。双葉病院の四四人の年寄りが死んだことに対する責任追及です。ただ、それに収まる話ではない。よく調べれば、さらに被害は広がると思います。災害関連死の数字を見ても、よくわかります。原発事故の場合、他と比べて桁違いなんです。福島県だけで二三〇〇人をはるかに超えている。なおかつ時間が経っても減っていかない。さすがに最近は自治体が審査することもあって、なかなか審査が通らず、数字が止まった感じがありますが、それでも二三〇〇人以上の方が亡くなっている。また、さっき言った子どもの甲状腺ガンのことも考えれば、先行き不安にならざるを得ません。このこと一つとっても、被害の深さは他に類を見ないものだと思います。

佐藤 経済的に追い詰められるだけではなく、精神的、健康的にも様々な形で被害が出てくる。それが原発事故の被害の多面性を象徴していると思います。

村田 原発避難者追い出し訴訟に関しては、別の意味でまた大変な問題を含んでいます。先ほどの国の責任の話とも通ずることですが、自ら何の落ち度もなく、こうした事故で被害を受けた人たちをどういうふうに扱っていくのかということです。大前提として、家がなかったら生活できません。住まいを奪われることの辛さは大変なものです。福島県は当初から二〇一七年で住宅支援を打ち切ると言っていました。国の考えを受けての話だと思いますが、六年経ったら打ち切る。その政策を頑固に進めた。それに対して、大多数の人は、苦しいながらも自分で家を見つけました。しかし、どうやっても手当てができない人が残る。これが今追い出しの対象になっている人たちです。そもそも、この人たちだって、自分で選んで公務員宿舎に入ったのではない。避難してきたときに、行政側から言われて入居した。その後時間が経って、経済状況も身体状況も変わらず、出られないと言っている。非常に限られた数の人です。それに対して、福島県が裁判にまで訴えて追い出そうとしている。普通の常識では考えられない所業です。国以上に住民を守る責任があるはずの被害当事者たる福島県が、裁判の力を借りて、「居残りは許さない」、「期限が切れたから出ろ」、「出なかったら倍の家賃払え」といったことを平然と言ってのける。これは別の意味での行政の腐敗です。

佐藤 地方公共団体には、住民を守るという重い責任があるはずです。それがまったく果たされていない。

村田 だから国連の人権理事会も、この問題を相当重視している。セシリア・ヒメネス=ダマリーさんの報告を見ても、住まいを奪うことは、国際法で禁止されている強制退去に当たると、はっきり警告している。それにもかかわらず、裁判所も含めてまったく問題ないかの如く判断を下している。こちらは国際人権法上問題があることを主張しているのに対して、地裁も高裁も、法的拘束がある話ではないと言って切り捨てている。国際的に見れば、明らかに司法の人権感覚が疑われるところだと思います。

最高裁を取り囲む「人間の鎖」

佐藤 最後に六月一七日に行われた、最高裁を取り囲む「人間の鎖」についてお聞かせください。

村田 我々損害賠償請求集団訴訟や東電刑事訴訟、子ども脱被爆裁判、原発避難者追い出し訴訟、それぞれが闘ってきたわけですが、今の状況を考えると、国側は被害者をすべて切り捨てにかかっていると言わざるを得ません。それを甘受することはできません。発端は、今年の二月に行われた損害賠償請求原告団の全国連絡会の総会でした。今の状況の元凶である六・一七判決をひっくり返すことを大前提として、司法がもっと原発被害に向き合うよう問題提起していく。そのことを他の訴訟団にも呼びかけるということで、同意を得られました。現在最高裁にかかっている原発関係訴訟は、今言った四つがあります。けれども、それだけではない。建設アスベスト訴訟、沖縄の辺野古基地に関わる代執行や安保法制、東海第二原発再稼働なども含めて、問題は山積しています。そうした関係者に、できる範囲のところで声をかけると、これも賛同を得られました。行政と立法が惨憺たる状態にある今、頼るのは司法しかない。その司法がこんな有り様でいいのか。これは自分たちの命にかかる問題である。そんな共通認識ができて、第一弾として見える形で、最高裁に声を届けようというのが、今回の「六・一七共同行動」です。最高裁の周囲七三〇メートルを「人間の鎖」で囲んで訴える。私たち当事者だけじゃなく、学者・文化人を含めて様々な方たちが賛同してくれた。原発は最大の公害である。今までにない大きな動きだと思います。ここからさらに輪を広げていきたい。普段この問題を忘れかかっている人に対しても、一緒に考えてほしいと思います。最高裁が本来果たすべき役割がある。そのことに対して声を上げていけば、司法も変わる可能性がある。変わらなければならない。最近で言えば、さっきも言ったけれど、夫婦別姓や同性婚に関わる判決を見ていても、トレンディーな問題には結構敏感です。世の中の風に無関心ではない。原発がすべての人の身近な問題だということが忘れられていること。これこそが問題なんだと思います。そうした状況に対しては、繰り返し言い募っていくしかないだろうと思っています。

(二〇二四年六月一日、読書人編集部にて)

 【以下「六・一七共同行動」に関する後記】

六月一七日午前一一時過ぎ、皇居のお堀に面した最高裁正門前。かながわ訴訟応援団が歌う「民衆に歌」の合唱の中、福島から、京都・大阪から、首都圏から続々と人々が集まり始めました。一二時、国立劇場を背にするコの字型の敷地を囲む七三〇メートルの歩道は、手を繋いだ「人間の鎖」で取り囲まれました。その数九五〇人。「怒」「独立」と染め抜かれたウチワの波、「原発は国の責任」「司法の劣化は許さないぞ」のシュプレヒコールが、いかめしい最高裁の建物に響きました。「人権を守る最後の砦」の、今の姿に向けられた人々の怒り。それは、司法があるべき姿を取り戻すまで続くであろう、新しく長い闘いの始まりを告げていると思います。(村田弘・記)

★むらた・ひろむ=福島原発かながわ訴訟原告団団長。

★さとう・よしゆき=筑波大学人文社会系准教授。著書に『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著)など。

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