- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: ルドヴィーク・アルムブルスター
- 評者: 伊藤貴雄
歴史的実存と理性
ルドヴィーク・アルムブルスター著/アルムブルスター哲学論集刊行会編
伊藤 貴雄
本書は、チェコ出身のカトリック司祭にして哲学者であり、日本という異なる文化圏において長く思索と教育を行ったルドヴィーク・アルムブルスター(一九二八―二〇二一、上智大学名誉教授・カレル大学名誉教授)の、半世紀以上にわたる哲学的営為を集成した論文集である。
シェリング後期哲学の研究を中心とする第一部、カントからヤスパースに至る宗教哲学を扱う第二部、さらに歴史哲学に立脚して「プラハの春」など同時代の出来事にも応答する第三部、そしてインタビューやエッセイを収めた第四部から成る。このようなまとまった形で著者の思索に触れることが可能となったのは、原稿の蒐集や原文との照合をはじめ編集業務にあたった門下の方々の長年にわたる労苦によるものであり、その尽力に対しても深い敬意を表したい。
本書の主題は多岐にわたるが、全体を通底するのは、異なる立場の「間」「境界」に立つという思考形式である。著者の関心は、超越と内在、哲学と宗教、信仰と不信仰、科学と宗教、現実とユートピア、さらにはヨーロッパと日本といった二項対立のいずれかに与するのではなく、そのあいだにとどまることにある。
この姿勢をよく示すのが、論文「現代無神論の系譜」である。無神論が当然の出発点となっている現代の精神的風土からも、著者は何かを学ぶべきと捉えている。現代無神論者はけっしてニヒリストではなく、人類の未来に対する責任を積極的に背負う高い道徳心に燃えていることが多いからである。無神論者との対話を通して、キリスト教の信者は「自分自身の信仰の理解を真面目に問いただす」契機を手にし、何もかもを神の立場から片付けようとする「高踏的」姿勢から免れうると著者は言う。著者がイエズス会神父であったことを知る者にとって、これは驚くべき主張ではなかろうか。
本書の注目すべき特質の一つは、その思考が紡がれた生活世界と不可分である点にある。評者の見るところ、著者はヨーロッパ人として西洋思想を日本へ一方的に伝達する主体ではなく、異なる文化圏のあいだに立つ媒介者として自らを位置づけている(インタビュー「ミネルヴァの梟」)。不思議なことに、そこには西洋中心主義の臭いが全くと言ってよいほど感じられない。むしろ日本という場においてこそ、ヨーロッパ的思考が新たな問いにさらされ、その意味を変容させていく。本書は、そのような哲学のあり方を体現していると言える。
さらに本書の語り口もまた魅力的である。著者は難解な議論においても概念をいたずらに弄することを避け、キリスト教徒の信仰構造についてもパーソナルなコミュニケーションの比喩によって語る(論文「シェリングの哲学とキリスト教」)。そこでは信仰は固定された内容ではなく、関係のなかで深まる出来事として理解される。その語りは人間の経験という内在に足場を置きつつ、なお超越へと開かれている。
こうした思考の背後には、編者による「まえがき」にも触れられているが、著者が若き日に師事したアドルノからの思考の影響を見ることができる。それは、言語や概念がしばしば人間を分断し、固定化された同一性が対立を生み出すという批判的意識である。それゆえ著者にとって哲学とは、超越と内在、宗教と哲学、信仰と不信仰といった引き裂かれた契機のあいだに身を置き、その緊張に耐えながら思考を持続させる営みにほかならなかった。
現代社会においては、宗教的・政治的立場をめぐる対立が固定化され、言語や概念によって分断が加速している。著者はそうした状況を踏まえ、ことに宗教間の対話においては「話し合う人が相互に認め合う共通の前提から出発しなければならない」(論文「哲学と宗教――キリスト教を中心に」)と指摘する。ここでいう「共通の前提」は固定的な同一性ではなく、対話の過程において生成される関係的条件として理解されるべきであろう。本書が示すのは、単なる理論にとどまらず、分断の時代において思考を持続させるための実践的かつ批判的な態度そのものにほかならない。(いとう・たかお=創価大学教授・哲学・思想史)
★ルドヴィーク・アルムブルスター(一九二八―二〇二一)=チェコ・プラハ出身のカトリック司祭・哲学者。
書籍
| 書籍名 | 歴史的実存と理性 |
| ISBN13 | 9784864356947 |
| ISBN10 | 4864356947 |
