2026/10/02号 4面

美学講義(一九五八/五九年)

美学講義(一九五八/五九年) テオドール・W・アドルノ著 柿木 伸之  美学こそ、アドルノの思考の核心である。第二次世界大戦中、亡命先のアメリカでホルクハイマーとともに執筆した『啓蒙の弁証法』に、人間が「啓蒙」の名の下で押し進めた合理的な自然の統御が、生存環境のみならず、人間性をも根底から破壊する暴力に転化してしまう「弁証法」を描き出したアドルノは、自然支配の機構からの解放の可能性を、芸術の美のうちに求め続けていた。彼が早くから親しんできた音楽や文学の展開には、精神の自由が、さらには自然の生命が輝き出る。その出来事を、現代における芸術の存在意義を示すものとして批評的に捉える美学が、彼の思考の中核にあった。  アドルノの美学を一つの理論として繰り広げる思考のドキュメントとして、この度日本語訳が刊行された一九五八/五九年の『美学講義』は実に意義深い。一九五八年は彼にとって幾重もの意味で節目となった。この年、『文学ノート』第一巻が刊行され、彼は音楽に加え、文学の批評においても地歩を築きつつあった。また、前年にフランクフルトのゲーテ大学の哲学ならびに社会学の教授に迎えられていたアドルノは、一九五八年に同大学の社会研究所の所長に就任している。そのような彼がみずからの理論的な立場を明らかにする意味で、あらためて美学に正面切って向き合ったのかもしれない。  ただし講義の表題に掲げられている「美学」とは、感性論としての美学に対する批判を踏まえたものでもある。その際にアドルノの念頭にあるのは、カントの『判断力批判』である。美の根拠を主観性に求めるこの第三批判の行き方は、アドルノにとって芸術美を感覚的な次元に還元し、作品を享受の対象と見なす「通俗的」芸術観にも結びつきうるものだった。彼は講義のなかで、当時広く浸透していた、芸術は感覚的に享受されるという考えを繰り返し批判している。それは社会に迎合しながら芸術を骨抜きにする「半教養」の表われであり、文化産業による芸術の消費にも道を開きかねない。  今日でも一定の影響力を保っている主観主義的な美学に対し、アドルノが講義をつうじて提示するのは、美学の「客観への転回」である。それは芸術作品が、例えばモーツァルトの交響曲がいかにして一個の作品として成り立っているかを、作品全体の統一として認識する道筋を切り開く。趣味的な享受が一つの旋律のように印象的な断片に固執することによって作品を陳腐化するのに対し、一曲の全体に客観となった精神を見届ける美学は、それを芸術作品として成り立たせる構成を重視する。作品は「事柄の内在的構成」において、社会の趨勢を根底から批判するほどの強度を発揮するのである。  このように芸術作品の客観的な構築を美学の焦点とする自分は「よきヘーゲル信徒」であるとアドルノは初回の講義で告白している。そのようにみずからの立場が率直に示されるのも、講義の語りならではのことだろう。そして、実質的に芸術の理論として講義が展開される点においても、たしかに彼の「美学」はヘーゲルのそれに近い。ただしみずから作曲家として新ヴィーン楽派に連なろうとしたアドルノは、モーツァルトの音楽のような古典的な「芸術」以後の芸術が作品を構成する情動的な過程に着目する。その際に彼は、表現主義とシュルレアリスムの方法にも一定の理解を示している。  アドルノによると、「自動記述」でもあるこれらの方法が目指すのは、「情動の記録」としての表現が、「純粋に示されることを通して、一つの美的形式にたどりつくこと」である。この独特の構成へと精神が媒介されるとき、「歴史が逆撫でされて」抑圧されてきた「犠牲者の声」が響き始めると、年長の友人だったベンヤミンの言葉遣いを借りて述べられる点も、当時のアドルノの問題意識を直截に表わして興味深い。彼は一九四九年に、「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」という命題を記した。アドルノの美学とは、それでもなお詩が書かれる意義を探究する理論であるようにも見える。  こうした議論を展開しながら、教室でのアドルノは、それに対する反問にも懇切に答えようとしている。芸術は破壊されたものだけを表現するのかという問いに彼は、社会における自然支配が進展する過程で沈黙を強いられたものに声を与える潜在力を核心に持たないような芸術作品は、現代では存在意義を持たないということだと答える。このような力を独特の構成において示す点で作品は、真理の媒体でもある。そして、その真理は作品の自然として美的に経験される。アドルノは言わばヘーゲルを越えて、「自然美はむしろ芸術美にとって独特のモデル」になりうることを示そうとしている。  芸術は、人間の内なる自然を含め、抑圧されてきた自然を作品の生命として解き放ち、それとともに社会に構造化された暴力を批判する。そのことを美として経験するとは、何よりもまず作品の強度に圧倒されることである。そのことを、プラトンが『パイドロス』篇で語る「狂気」などを参照しながら、美をめぐる思想史の解説を交えつつ論じるのも、『美学講義』の特徴と言える。ただしアドルノに言わせれば、美を経験するとは、「芸術作品をともに遂行すること」にほかならない。それは作品を構成する独特の関連を内側から感じ取ることであり、それができるところに精神の自由が示される。  あえて言えば、アドルノが美の経験の核心にあるものとして剔抉しているのは、表面的な「没入」と、作品の構成への「沈潜」の差異である。『美学講義』は、彼の美学の生成過程を、その丁寧な解説とともに示したドキュメントとして無二の価値を持つ。それが読みやすい訳文で読者に届けられたことは、アドルノの思想を幅広い関心に開いた点で画期的と言える。このような日本語版刊行の意義を踏まえたうえで顧みておきたいのは、一九五八/五九年冬学期の講義が、今日の社会における芸術の位置、とりわけ「アート」をめぐる言説の現況に対する根底的な批判を提起していることである。(藤野寛・西村誠監訳)(かきぎ・のぶゆき=西南学院大学教授・哲学・美学)  ★テオドール・W・アドルノ(一九〇三―一九六九)=ドイツの哲学者・社会学者・美学者。フランクフルト大学で哲学を学ぶとともに、アルバン・ベルクによる音楽の指導を受ける。第二次世界大戦後、亡命先のアメリカから帰国し、マックス・ホルクハイマーと共にフランクフルト学派を指導した。権威主義的態度を測定する「Fスケール」の開発者としても知られる。著書に『本来性という隠語』『新音楽の哲学』『否定弁証法』、共著に『啓蒙の弁証法』など。

書籍

書籍名 美学講義(一九五八/五九年)
ISBN13 9784065429341
ISBN10 406542934X