列島哲学史
野口 良平著
大胡 高輝
本書は、先史時代から現代にいたる日本列島の精神史・文化史をめぐる思考を通じて、新たな哲学観と哲学史の構想とを提示しようと試みる著作である。アカデミックな思想史研究では以前から、大々的な日本人論や日本文化論がさしあたり相対化されてきたといえるが、他方、現在の日本社会では、おそらく国内外の情勢の変化をうけて、日本をとらえなおすための手がかりが強く求められているように見受けられる。本書は、こうした動向に別様の示唆を与える可能性をもつ著作として位置づけられうるであろう。あるいは、西洋以外の地域における思想表現と哲学との関係を問う、近年注目されている世界哲学の枠組みとも呼応しうる著作であろう。
本書の特質は、哲学を、個別具体的な時代状況のなかにある人間の、いわば生身の生から切り離されえないものとしてとらえる姿勢を徹底していることである。その哲学観は、本書が哲学に与えている、「人間が世界像のゆらぎを経験した際に、自分ともう一人の自分、自分と他人(たち)との対話を通して、自分の視野を育て、態度を整えていく努力。またその努力を支えうる方法」(五頁)という定義において、端的に示されている。
本書では、この哲学観と、「強大な中央文明の辺境にある」(一〇頁)という日本列島の動かしがたい構造とを見据えて、哲学史がラディカルに描きなおされる。本書が構想する日本列島の哲学史は、中国・欧米などの中央文明や政治的・社会的支配層といった優位者・勝者が発動させる、「自らの排他性に無自覚なロゴスの威力」(二五七頁)としての「上からの普遍性」(二六〇頁)に圧倒されるなかで、辺境文化や被支配層といった劣位者・敗者が、「より開かれたもう一つのロゴス」(二五七頁)としての「下からの普遍性」(二六〇頁)をさぐりあてるべく多彩な思考を展開してゆく歴史である。その具体的な哲学史叙述においては、教科書的な哲学史理解がほとんど注目してこなかった多くの人物・出来事に哲学的意義が見出され、たとえば、清少納言・紫式部の文学的営為が、「権力機構の周縁部からその中心を見返すに足る個としての観察眼そして批評眼を[…]書き言葉のなかに定着」(七七頁、中略評者)させることを目指した哲学的営為としてとらえなおされ、あるいは大黒屋光太夫を船頭とする神昌丸のロシアへの漂着が、「ユートピア的構想力」(一六〇頁)に関わる哲学史の一齣として位置づけられてゆく。
また本書では、哲学史叙述の方法も、著者の哲学観と連関していると思われる。本書は、鶴見俊輔・加藤典洋を筆頭に、アカデミズム内外の境界を超えて日本の知的世界に大きな影響を与えた知識人・思想家たちの思考を繰り返し参照しているが、こうしたスタイルは、「専門的考証」(二八六頁)に「学問をつくり育て、進めていくもとの動機から離れてしまう危険」(同)を見て取り、むしろ「太い線で一つの像を描き切る」(同)叙述を目指した著者の学問観に根ざしたものであろう。そしてその学問観は、生身の人間が経験する「世界像のゆらぎ」を哲学から切り落としてはならないと見る本書の哲学観に対応していると考えられる。
さて、列島哲学史を以上のように構想した本書では、「列島」という表現と深く関わる「日本人」「日本語」という概念の構造や、「哲学」の本性が慎重に検討されていたが、他方、列島哲学史における「史」の意味は問われていなかったように見受けられ、その点が今後の検討課題の一つとなると思われた。哲学的思考を時代状況のなかに返してとらえなおすという方法は、たしかに本書の哲学観に即するものであろう。しかし同時に、本書では列島全体・歴史全体を鳥瞰する視点の存在や、時代状況という客観的事実の実在などが自明視されているように思われ、そうしたどことなく「上からの普遍性」へ接近してゆきそうな「史」の性格をどのように考えるべきかという問いが、読後残った。(おおご・こうき=親鸞仏教センター研究員・倫理学・日本倫理思想史)
★のぐち・りょうへい=京都芸術大学非常勤講師・哲学・精神史・言語表現論。京都大学卒業、立命館大学大学院博士課程修了。著書に『「大菩薩峠」の世界像』『幕末的思考』、訳書に『メタフィジカル・クラブ』『明治維新の敗者たち』など。一九六七年生。
書籍
| 書籍名 | 列島哲学史 |
| ISBN13 | 9784622098027 |
| ISBN10 | 4622098024 |
