2026/06/05号 3面

民俗学の可能性をひろげる

民俗学の可能性をひろげる 福田 アジオ著 塚原 伸治  福田アジオによる自著未収録論考の集成となる全三巻のうち第一巻である。それは同時に、戦後の民俗学が学問的基礎をいかに鍛え上げてきたかを、一人の研究者の軌跡を通じて示す記録でもある。各論文末尾の書き下ろし「補記」には、隣接科学との対話や学界の批判への福田の応答が刻まれ、その跡をたどれる。巻末の渡部圭一の解説が位置づけるように、柳田國男の重出立証法(進化主義や伝播主義にも通じる、一九世紀から二〇世紀前半的な「科学」志向)に対し、別の科学的手法として個別分析法を対置し、地域社会に根ざした実証的な民俗学を確立したのが福田であった。  本書は四部の論考と、自身の軌跡を振り返る章からなる。第一部「民俗学の方法」は、近代史との協業、博物館実践、歴史教育との接続といった隣接領域との対話を通じ、民俗学の社会的射程を測り直す。第二部「研究課題の開拓」は、ニソの杜の制度的変容や日記・日誌という新たな素材を通じて、民俗学が扱いうる対象の幅を押し広げる。第三部「ムラ研究の展開」は、行政区分としての「村」と生活実感に基づく「ムラ」を概念的に峻別し、民俗を伝承する基盤としての「伝承母体」論を提示する本書の中核をなす。第四部「民俗の地域差と地域性」では、東西日本の生活文化の比較が、個別分析法の実践として展開される。  福田民俗学の核心は、抽象的な比較論の誘惑を断ち、徹底した現場の論理を構築したことである。民俗学をロマンティシズムから引き剝がし、厳密な実証主義に引き込んだこの業績は、決定的な画期をなした。あとがきで福田は周囲から「根拠の福田」と呼ばれたことを引き合いに、他者による「検証可能性」を学問の絶対条件として突きつける。重出立証法もまた科学を志向した方法論であったが、福田が問題視したのは、それが広域比較と類型化に傾くあまり、個別の事例がいかなる手続きで「証拠」たりうるかという根拠の所在を曖昧にした点であった。検証可能性の徹底は、民俗学が他領域と対話し、妥当性を担保する上で不可避の手続きであった。  もっとも、本書の論考が提示する個別分析法や東西日本論には未解決の問いも残る。たとえば解説の指摘のとおり個別分析法をめぐっては、近世村落に固執しすぎるとの批判に対して福田は時代を選ばない枠組みだと応じる。しかし、現代社会の流動的なフィールドにこの方法がどう適用されうるかは必ずしも明示されない。  そうした未解決の問いを引き受けたとき、本書には福田自身が明示した方法論の射程の外側にまで届く、もう一つの可能性が胚胎していることに気づかされる。たとえば「日記・日誌が切り拓く歴史と民俗」で福田は、日記という素材を「固有名詞を伴う人間が、時と場をもって行動したことを示した」(一四五頁)記録として位置づける。これは形式的・法制的資料とは異なり、一回的で固有名詞的な記録である。だが、その一回性ゆえに「根拠」を欠くことにはならない。むしろ、その固有性のなかにこそ生活史の機微を読み取るべき価値があるとする。  ここに示されているのは、「検証可能性」のもう一つの位相であるかもしれない。それは、再現可能性という同質化に還元されない、固有の出来事や経験を、それでも他者が読み解きうる「根拠」として扱う手続きのことである。評者には、本書の事例分析の根拠とは、データとしての再現性のみならず、それがどれほど読者の想像力を触発し、新たな解釈の連鎖を生み出せるかという「理論的触発力」のなかにも宿るように思われる。まさに福田の事例分析こそ、検証可能性を徹底した先で、人文学的な解釈の豊かさへと開かれていく稀有な実践であるといえるだろう。  かつて福田が柳田の科学を相対化して個別分析法を確立したように、本書はいま「検証可能であること」の意味そのものを問い直すよう私たちに迫る。その問いは福田の実証主義の外部にではなく、その徹底のさきにこそ立ち現れる。(つかはら・しんじ=東京大学大学院准教授・民俗学)  ★ふくた・あじお=国立歴史民俗博物館名誉教授・民俗学。著書に『近世村落と現代民俗』など。一九四一年生。

書籍

書籍名 民俗学の可能性をひろげる
ISBN13 9784909544483
ISBN10 4909544488