社会学的質的調査の挑戦
有末 賢・小倉 康嗣・松尾 浩一郎編
好井 裕明
社会学の質的調査の基本を考え直すことができる良書が出た。本書の主張は明快だ。「人間と人間との実存的な〈出会い〉と〈対話〉こそが社会調査の本質」だと。そして、それを社会学研究者はどのように捉え咀嚼し、実際の調査現場で実践できるのか。そのためにはただ現場に出るだけでなく、異質で理解不能な「他者」をどのように事前に考えたうえで、研究調査する〈わたし〉が「他者」と出会え、語りあえるのだろうか。こうした問いを本書は突きつける。
「隔離された〈経験〉を取り戻す」(小倉康嗣)、「調査が動き出す――広島フィールドワークから考える〈出会い〉と〈対話〉の意味」(根本雅也)、「なぜ調査者は書くのか――ある原爆被爆者調査の社会調査史」(松尾浩一郎)、「質的データのモダリティ分析」(後藤隆)、「質的データのモノグラフ的構成」(井腰圭介)、「出会いと迷い」(岡原正幸)、「ブルデューの反省的社会学と質的調査」(三浦直子)、「質的社会調査と社会学」(有末賢)。質的調査やフィールドワーク、質的データ分析、社会調査史、自己言及的社会学実践、社会理論にそれぞれ熟達した著者が独創的な論考を寄せている。最初に「終章」の「質的社会調査と社会学」を読んでみるのも面白いだろう。本書の各主張や知見が見事に整理されている。これを読んだうえで各論考を読めば、「整理」を超える〝自分なりの理解や発見〟があるからだ。
でもなぜ今、著者たちは「他者」との〈出会い〉や〈対話〉の意味や意義をここまで明快に主張したのだろうか。おそらくは今、量産されている社会学的質的調査方法論やテキストへの〝憂い〟と〝警鐘〟があるのではないか。2006年に私は『「あたりまえ」を疑う社会学』(光文社新書)を出した。当時、調査論テキストは量的、統計的調査の説明が大部分を占め、質的調査は末尾に「事例調査法」として扱われているだけだった。対象者と「ラポール」を作ることが必須。「ラポール」というわかったようで何を言っているのかよくわからない言葉が書かれているだけで、実際の質的調査はまさに調査する当事者の経験と技術に任されていたのだ。質的調査は〝職人芸〟だと。でも〝職人芸〟の中にはさまざまな「センス」が息づいているのではないだろうか。そう考え私は「方法」ではなく「センス」を磨くことこそ、量的質的を問わず「調べること」の核心にあると主張した。
今は、隔世の感がある。こうすれば簡単に聞き取りできるし、フィールドに入れるよと促すわかりやすい質的調査テキストが量産される現在、著者たちはそこで深められていない端的な事実がもつ意味や意義を改めて書きたかったのではないだろうか。それは社会調査の「困難」であり、「他者」と〈出会うこと〉、「他者」と〈対話すること〉、さらには「他者」を〈理解すること〉の圧倒的な「困難」だ。この「困難」に改めて立ち向かうことこそ社会学的質的調査の〝挑戦〟なのだと。
社会調査は「他者」が生きている現実に介入する〝余計ごと〟だ。でも「余計だ」からと言って、研究者は介入をやめることはできない。詳しく個別体験や生きてきた歴史を聞き取ろうとするなら、なおさらだろう。なぜ〈わたし〉は他でもない〈あなた〉にこれを問うのか。問い方を誤れば、そこで「他者」との繫がりは断ち切られてしまうだろう。常に〈わたし〉と「他者」のそれぞれの実存のはざまに質的調査の実践は息づいている。質的に調べ、質的に考えることは、常に「調査するわたし」を危うくするリスクであり、リスクに向き合うことこそ、質的調査の〝挑戦〟であり〝快楽〟なのではないだろうか。
最後に厳しい出版事情のもと、〝ひとり出版社〟が本書を果敢に出版したことに敬意を表したい。また大手出版社の講座もの編集にあくせくしたり〝有名性〟のみを求める研究者の営みとも一線を画する著者たちの実践にも敬意を表したい。(よしい・ひろあき=摂南大学現代社会学部特任教授・社会学・エスノメソドロジー)
★ありすえ・けん=慶應義塾大学名誉教授・都市社会学。一九五三年生。 ★おぐら・やすつぐ=慶應義塾大学教授・生の社会学。一九六八年生。
★まつお・こういちろう=帝京大学教授・都市社会学。一九七二年生。
書籍
| 書籍名 | 社会学的質的調査の挑戦 |
| ISBN13 | 9784911029220 |
| ISBN10 | 4911029226 |
