2026/09/25号 4面

不平等と教育

不平等と教育 苅谷 剛彦著 打越 文弥  評者は、中公新書が大好きである。数ある新書レーベルの中でも、「蒙が啓く」経験でいえば、群を抜いているからだ。それは単に新しい知識を得ることではない。同新書末尾の「刊行のことば」を借りれば、中公新書を読むことで、「私たちは、知識として錯覚しているものによってしばしば動かされ、裏切られる」ことを痛感し、「事実のみの持つ無条件の説得力」に一縷の光明を見出すのである。  日本を代表する教育社会学者である苅谷剛彦の『不平等と教育』を読み終えたとき、中公新書の理念を体現した一冊だと感じた。本書は、教育格差の実態が四半世紀にわたって明らかにされてきたにもかかわらず、なぜ格差是正の取り組みは十分に進まないのか、という問いから出発する。苅谷によれば、その問題の背景にあるのは、私たちが格差を理解するための認識枠組み、すなわち「知識」だという。  本書が注目するのは、格差を分析する社会科学が西洋由来の学問であり、その概念が翻訳を通じて「濾過」されながら日本社会に定着してきた点である。この「濾過」によって、本来の歴史的文脈が失われ、概念は必ずしも本来の意味と一致しない形で用いられる。意味が曖昧なまま言葉が使われる「ユーフェミズム」が生まれ、格差問題の本質を見えにくくしている。これが、本書の中心的な主張である。この主張は、苅谷が約30年前に著した『大衆教育社会のゆくえ』を反省的に読み直す第2章、第3章で、より説得的に展開される。「大衆」の原語 であるmassは本来エリートとの階級的な対立構造を含む概念だった。しかし、翻訳の過程で、日本ではその意味が曖昧になった。その結果、「教育の大衆化」という言葉は、教育機会の不平等を見えにくくしたという。  本書後半では、「格差と不平等」「階層と階級」「均等と平等」といった、似て非なる概念が整理される。これらの違いは「機会(opportunity)」をめぐる示唆に富む議論で、説得的に論じられる。アメリカで用いられてきた opportunity という概念は、出身背景(=階級)にかかわらず、社会経済的な成功を得るための「機会」が万人に開かれているべきだという、社会移動の理念と強く結びついている。そのため、教育を受ける「機会」は、誰もが等しく保障されるべきものとして、「平等」という概念と不可分であった。しかし、苅谷によれば、「濾過」の過程で教育機会と社会移動との結びつきが弱まった日本では、「機会の平等」に代わって「機会の均等」という表現が定着した。そこでは、不平等を是正し、社会移動を促進する積極的な理念よりも、誰もが同じ条件で教育を受けられるという形式的な公平性が重視されるようになったのである。「平等」ではなく「均等」と親和的なユーフェミズムは、「男女雇用機会均等法」などにも見られ、教育にとどまらず、日本社会に広く浸透した言葉の使われ方を問い直すものとして、極めて示唆的である。  一点、疑問を述べておきたい。本書は「西洋から知識を輸入した日本」という枠組みを採るため、「西洋」をやや一枚岩に捉えている印象も受けた。例えば「メリトクラシー」(知能・才能や努力といった「メリット」に基づいて評価が行われること)という概念は、欧米では知能と階級の関係が深いという文脈の下で理解されると本書は論じる。そこでは、「努力」を重視する日本と先天的な「知能」を重視する欧米が暗に対比されている。しかし、近年の研究が示すように、「才能」を重視する英米と「努力」を重視する北欧といったように、メリトクラシー観も社会によって異なる。西洋内部の多様性も検討されれば、議論はさらに豊かになったのではないか。  もっとも、こうした疑問が浮かぶこと自体、本書によって「蒙が啓いた」証なのだろう。評者自身も、日本語で論文を書く際、「階級間の不平等」ではなく、よりマイルドな意味を帯びる「階層間の格差」といった表現を半ば無意識に用いることで、日本社会の不平等を「階級」の問題として捉えることから、距離を置いていたのかもしれない。本書は、そのことへの反省を促した。まさに、中公新書の「刊行のことば」がいう「事実のみの持つ無条件の説得力」を実感したのだ。格差という、日常に深く根付いた言葉を、その前提から問い直す。本書は、そのための機会を与えてくれる一冊である。(うちこし・ふみや=シンガポールマネジメント大学特任助教・社会学・人口学)  ★かりや・たけひこ=上智大学特任教授・教育社会学。著書に『教育の世紀』など。一九五五年生。

書籍

書籍名 不平等と教育
ISBN13 9784121029157
ISBN10 4121029151