2026/05/29号 6面

「いまどきの若者」の150年史

「いまどきの若者」の150年史 パンス著 石田 月美  ずっと若者論をバカにしてきた。1983年生まれの私は、ティーンエージャーの頃、オウム事件や酒鬼薔薇聖斗事件が起こり、女子高生ブームの真っ只中で、大人たちに「いまどきの若者像」を好き勝手語られてきたからだ。世代は違えど、若者を一括りにした粗雑な像を大人に押し付けられ、違和感を抱いたことのある者は少なくないだろう。しかし、本書『「いまどきの若者」の150年史』はそのような批判を十分に理解した上で、精緻に「若者」の「語られ方」の歴史を編み込んでいる。  著者パンス(1984生まれ)は、ライター、批評家、年表制作者。幼少期から年表作りが趣味だという著者が、明治後期から現在に至るまでの若者論を膨大な歴史資料をもとに紡いでいく。各時代の若者論はどのような社会構造に支えられて生まれ、それらは過去から何を受け継ぎ、未来に何を残したのか。連綿と続く歴史を追いながら、抑制の効いた筆致でその時々の妥当な見立てを示した本書は、旧来の若者論とは一線を画し、読み物としての面白さと同時に、歴史資料としての信頼も備えている。  いわゆる「若者文化」は、明治後期から始まった。幕末の志士のような豪傑で真っ直ぐな生き方ではなく、内面の葛藤に悩み、悶え苦しむ若者たちが現れ、「煩悶青年」と呼ばれた。大正から昭和初期にかけては、モダンに変貌していく社会と若者の不安が接続されていく。それを消費や享楽で表現したのが「モダン・ボーイ/モダン・ガール」、思想や行動へ向かったのが左翼活動への関心や参加である。そして、軽薄だと揶揄されていた若者への評価が一変したのが戦争だ。太平洋戦争開戦直後の1941年に、山本五十六は「今どきの若い者は、などと口はばたきこと申すまじ」という言葉を残した。戦地で死にゆく若者が大事にされたのである。戦後の歴史、特に若者の系譜の中心には「生きがい」の概念があるが、太平洋戦争の時代においては、死ぬことに価値を見出す感覚、いわば「死にがい」の概念が広く行き渡っていた。今では想像し難い感覚を、戦争経験者は持っていた。その者たちが戦後、若者を語るとき、その奥には「死にがい」の記憶が影を落としていたのかもしれない、と著者は述べる。  このように本書は、過去の出来事を今の価値観で安易に判定することなく、歴史の中で発生したさまざまな言説や構造との繫がりを描いてみせる。とりわけ、団塊世代→新人類/バブル世代→さとり世代までの流れを、「個人化」の系譜に位置付けたのは見事だ。しばしば全く異なる文化を持つと語られるこれらの世代の若者たちは、むしろ同じ「個人としてどう生きるか」という連続した問いを持っていたと著者は捉え直す。団塊世代は、集団主義の社会に初めて「個」を持ち込み、家族や会社、国家という巨大システムに対し、学生運動や全共闘運動で抗っていた。バブル世代は経済が豊かになり、団塊世代が求めた「個」への欲求が、「個性」へと転化し、さまざまな領域で「自分らしさ」が価値となった。バブルが崩壊し就職氷河期が到来すると、かつての「自由に生きる」という態度が、「自由に生きるしかない」という追い詰められた現実と並行し、「自己責任」のようなキーワードが生まれる。その中でさとり世代は過剰な自由と自己責任を受け継いだ結果、身の丈に合わせ、人間関係をミニマルに保つ、といった方法で日々の生活を最適化していく。現代社会を構成している人々は、時代の変化や現実の状況に合わせて生き方を変化させてきただけで、「個人としてどう生きるか」というテーマの追求には変わらないという視座には膝を打った。  そして、現代は「全員が若者であり、同時に全員が大人である」時代だと著者は続ける。フラットな視点で歴史をまなざす著者の丁寧な分析により、世代間対立が解体されていくさまは圧巻だ。今の若者が成熟しているように見え、大人が若者化しているように見えるのもそれぞれ理由がある。自分と違う者を切り捨てるのではなく、歴史から視野を広げ対話しようとする姿勢を本書から学び取ってほしい。「いまどきの若者は」とうっかり口にする前に。(いしだ・つきみ=もの書き)  ★パンス=ライター・批評家・年表制作者。テキストユニット「TVOD」の片割れ。TVODとしての著書に『ポスト・サブカル焼け跡派』など。

書籍

書籍名 「いまどきの若者」の150年史
ISBN13 9784480685513
ISBN10 4480685510