声なき声
小野寺 翔太朗著
金井 啓子
本書を読み終えてしばらく、私の頭の中に熱のようなものが残った。それを引き起こしたのは本書の内容か、はたまた取材対象に向けた著者の熱い思いか。いや、両方かもしれない。
著者は父の自死をきっかけに家族との繫がりが断たれ、「すべてに失望」する。「この怒りと悲しみで、この世界を焼き尽くし滅ぼすことができるんじゃないか」。そう思いながら日本を発ち、キルギス、トルコ、アルメニア、ハンガリー、ウクライナを訪れる。
だが、出会う人々と家族のような関わりを重ねるうちに、ロシアに侵攻されたウクライナの人々や、ナゴルノ・カラバフ戦争で消滅したアルツァフ共和国の難民について伝えたい思いが募り、ジャーナリストとして活動し始める。本書に描かれるのはその過程である。
彼らから聞く苦難と理不尽は想像を絶する内容であり、著者は時に言葉を失うほどの衝撃を受けながらも丁寧に文字にしている。
ただし、著者が伝えたいのは苦しみだけではなく、苦難の中でも笑顔で日常生活を送る人々の「光」なのだと繰り返し述べられる。それは、「わたしが求めるべきは、涙の、さらに奥にあるもの」という言葉に象徴されている。虐殺からたった3カ月しか経たないウクライナのブチャの街角で、ジェンガで遊ぶ少女たちが悔しがったり手を叩いて笑ったりしている様子を見た著者。「この光景こそ、伝えなければいけない。涙のさらに先にある、ウクライナの未来であり、人間の輝きであり、戦争や悲しみの存在しない、やさしい世界だった」と書く。
ジャーナリストとなる意志を固めていく著者が、「ジャーナリズムとはなんだろうか」と問う場面がある。自宅前でロシア兵に娘を射殺されたブチャの女性を取材した時のことだ。「無表情で、瞳には光はない」状態で語り始めた彼女だが、娘の死体を自宅の庭に埋めた話をすると涙をこぼし始める。ジャーナリストとしてはその場面を写真に撮らなければと思いながら、著者自身も涙を流し、カメラを持てなかったという。「ジャーナリズムとは中立であること、事実を撮影すること。本当にそれだけなのだろうか?」と自問自答した末に、著者は父を自死で失った「あのとき、声を聞いてほしかっただけ」だったことを思い出す。そして、「写真をあえて撮影せずに、現地の人々の声に耳を傾け、ともに涙を流すこと。それもまた一つのジャーナリズムではないだろうか」という著者なりの答えにたどり着く。
私が記者として働いていた際は、自分の感情を排して取材や記事執筆に臨むことを課していた。著者と私が思うジャーナリズムは一致しないが、必ずしも一致しなくてもいいのだろう。むしろ、一致しないからこそ、ジャーナリズムに広がりや深みが生じ、「声なき声」が外の世界に伝わりやすくなるのかも知れない。著者の言葉はそのような考えを生じさせた。
文中で著者はしばしば自身の文章力のなさを嘆いている。確かに、率直に言って、本書では似た表現が繰り返し使われ、誤用と思われる言い回しも見かけた。ただ、ジャーナリストは必ずしも卓越した文章力を持つ必要はない。それを補ってくれる能力の高い編集者と二人三脚で歩むことが欠かせないのだ。著者が今後フリーランスのジャーナリストとして歩み続けるにあたって、そういった編集者と組むことはより重要になってくるだろう。
父の自死に背中を押されるように始まった海外での放浪を描写した本書は、2022年夏に訪れたブチャを1年後に再訪する場面で終わる。
一連の旅を通して、父の死や繫がりが途絶えた家族に対する著者の思いはどう変わったのだろうか。著者の作品は、今後も父の死や家族との関わりを軸に進むのか。そこから離れるのか。それが、彼の作品の読者が期待すべき点のひとつとなりそうだ。
かつて沢木耕太郎の『深夜特急』がそうであったように、本書もまた、この作品に出会った現代の若者が、狭い世界から飛び出すきっかけとなるのではないか。その可能性は小さくはないはずだ。(かない・けいこ=近畿大学総合社会学部教授・ジャーナリズム)
★おのでら・しょうたろう=フォトジャーナリスト。「夕刊フジ」連載、「現代ビジネス」「FRIDAY」などの雑誌や新聞、WEBメディアなどに寄稿。
書籍
| 書籍名 | 声なき声 |
| ISBN13 | 9784865981278 |
| ISBN10 | 4865981276 |
