アガンベンの思想圏
岡田 温司著
長島 皓平
「クアデルニ」と呼ばれる膨大なノートが続々と刊行され、われわれはアガンベンの数々の著作へと至る足跡を、また著作には収められなかった思索の数々を仔細に辿ることができるようになった。他方で新たな著作の刊行も止むことなく続き、クオドリベト社のホームページで公開されているコラムではAIからイラン戦争まで時事問題への言及も事欠かない。倦むことなく思索を続けるアガンベンはわれわれに何を語るのか。
本書『アガンベンの思想圏』は西洋美術史における大家であり、長きにわたってアガンベンの翻訳・紹介に携わってきた碩学による一冊である。同じ著者によるまとまったアガンベン論としては、『増補 アガンベン読解』(平凡社ライブラリー、二〇二一年)と『アガンベンの身振り』(月曜社、二〇一八年)があり、本書はこれらに続く三冊目となる。現代イタリア思想についての概説書における記述も含め、本邦におけるアガンベンをめぐる紹介は相当な蓄積がなされてきた。同じくアガンベンの翻訳と紹介において重要な役割を果たしてきた上村忠男や高桑和巳らの仕事とあわせて、日本語でアガンベンを読み、理解する環境は充実してきたといえよう。しかし、ノートを手がかりにアガンベンの最近年の著作までを辿る本書は、とりわけ近年のアガンベンに関心を持つ読者にとって類書のない一冊となっている。
本書は、最終巻である『身体の使用』を以て終了したホモ・サケル・プロジェクト以降の著作を中心に据えつつ、ノートを参照しながら『中身のない人間』や『言語活動と死』といった初期作を新たな視座から読み直し、プロジェクトと並行して書かれた作品や、その後の未邦訳作の数々を論じている。既存の概説書の中でもこれほどの射程をもつものはなかったといっても過言ではない。
内容を概観しよう。ミッキーマウスから「注意(アテンション)」までノートの豊かな記述を辿る第一章、「エピゴーネン」として他者への依存を肯定するアガンベンの人間模様を描く第二章、『創造とアナーキー』の議論を紹介しつつ、建築や日本におけるアガンベンの影響を受けた展覧会まで論じる第三章、ハイデガーをめぐるデリダとアガンベンの差異を掘り下げる第四章、労働と無為、生政治、スピノザ、貧しさといった主題を通じてネグリとアガンベンを対比する第五章、ドン・キホーテの比喩を手がかりに存在論の哲学的考古学を論じる第六章、シュールマンを導きの糸としてアガンベンのアナーキーを論じる第七章、アガンベンと精神分析を論じる第八章、『王国と楽園』から原罪、カテコーン、瀆聖へとアガンベンのキリスト教論を通観する第九章、そして喜劇を通じて全体の議論を締めくくる第十章。
未邦訳のアガンベンの著作の中でも『悪の神秘』、『プルチネッラ』、『ヘルダーリンの狂気』、『ピノッキオ』、『人間の声』、『残りの言葉』といった著作が手際よくまとめられその内容を簡潔に窺い知ることができるのは、ひとえに長年にわたりアガンベンの思索に精通してきた著者の手腕によるものである。訳書のあとがきや既発表論文をもとに書き下ろしが加えられた本書は、美学や哲学から精神分析まで主題も多彩で、序論で示されているように読者の関心に応じてどこから読んでも資するところがあるだろう。本書を読みながらエピゴーネンとしてアガンベンが多くの人々の影響下で思索を重ねたことを手がかりに読み解くという著者の仕事に評者自身もまた、知らぬうちに多くを負っていたのだと気づかされた。
ところで、本書は既存の記述の数々をもとにしているために、ときおり同趣旨の反復が見受けられるが、そのうちの一つにマルチチュード、可能知性、一般知性をめぐるアガンベンの議論がある。しかし、アガンベンはネグリ+ハートの『帝国』を意識して自身が描くマルチチュードの系譜からマルクスの名を消したとする本書の考察には、一定の留保が要るのではないだろうか。『身体の使用』以降においても、使用価値における使用、無為の様式、類的本質といった主題をめぐってマルクスは頻繁に参照される。そもそもアガンベンが自らの哲学を総括するにあたって依拠する脱構成という概念は、オペライスタのマリオ・トロンティらの議論に触発されてのことであり、この意味でイタリアにおけるマルクス(主義)とアガンベンの関係は、別様の視点からも論じられ得るのではないだろうか。
望蜀を承知の上であえて付言するならば、本書に付されたアガンベンのブックガイドにおいて取り上げられなかった『ピラトとイエス』や『精神と文字』といった未邦訳の著作の紹介もあればと思わずにはいられない。他にも『思考の時』や『河口にて』など、翻訳も紹介もされていないが理論的にもアガンベンの来歴を知るうえでも重要な作品は数多く残されている。
本書がアガンベンの最新の動向を知るうえで類書のない一冊であることはたしかである。しかし、これはあくまで著者による読解と紹介であってその営みに取捨選択がついて回るのは当然のことであろう。それゆえ、読者においては本書を通じてアガンベンを知り、各々の問題関心に応じてアガンベンを読み解く中で、各々の見方を獲得することが期待される。これからも予定されているノートの刊行はその営みを支えてくれるだろう。ホモ・サケル・プロジェクトそのものは放棄された。だからこそ、それは誰かに引き継がれるのをいまも待っている。(ながしま・こうへい=日本学術振興会PD・立命館大学専門研究員・政治思想)
★おかだ・あつし=京都大学名誉教授・西洋美術史・思想史。京都大学大学院博士課程修了。著書に『モランディとその時代』など。一九五四年生。
書籍
| 書籍名 | アガンベンの思想圏 |
| ISBN13 | 9784480018427 |
| ISBN10 | 4480018425 |
