2025/12/12号 5面

物語伝承論

物語伝承論 兵藤 裕己著 阿部 宏  文学研究がその資料とする文字テクストは、近代の印刷術によって生み出されたものである。しかし活字は、豊穣な口承の伝統を漂白化してしまったのではなかろうか。また、文献学の語源は、そもそもギリシャ語の「philéo(渇望する)+lógos(発話)」であったはずだが、音調が孕むメッセージを研究対象から捨象してしまったのではないか。例えば平家物語は、まず原典がありそれが様々にアレンジされていったものではない。琵琶法師による種々の語りが先にあり、その一つであった明石覚一のものが(口述筆記により)正本とされていったのである。  本書は、兵藤裕己氏の日本口承文芸研究の集大成である。第一部「物語の政治学」では「源氏」と「平家」の成立と伝来、第二部「物語の伝承学」では盲僧の物語伝承、第三部「語り手の位置」では語り物の担い手であった宗教芸能民、第四部「物語の文体と思想」では「源氏」と「平家」の語りの様態や近代の言文一致体の成立、「結語 物語の文献学へ」では西洋近代的な「文献学」への批判についてそれぞれ論じられている。  兵藤氏によって展開される口承の世界は、きわめて魅惑的かつ示唆的なものである。例えば九州圏では、盲人の説教師は神事をも司る存在であった。盲僧によって語られる物語は、文句(筋)、フシ(音調)、琵琶(音楽)の複合体であるが、これらははじめから不可分の塊で、各要素が表現効果を増すために人為的に組み合わされたものではない。「山鹿(=琵琶弾き盲僧の山鹿良之)からの聞き取りでたびたび経験したことだが、フシをつけずに文句だけをいうのは、ほぼ不可能といってよい。」という。  ところで、われわれ現代人にとって文句は小説の地の文にあたるが、フシとはどのようなものであろうか。  一例として以下の「あぜかけ姫」の一節を見られたい(太字は各フシを、琵琶法師の氏名は( )で示す)。  【あぜかけ姫は、機織りの巧みさを姑に嫉妬され、その呪いによって四十八手の最後の技能を喪失してしまった。】  コトバ四十八手の綾のあぜ、四十七手は掛けたれど、残るひと手はつゆ忘れ オトシいたわしなるやさよてる姫(=あぜかけ姫) ウレイかけかえかけかえしたまえども さらにひと手は覚えなく いかなる人の恨みや なにたる神のごばちかと 天には焦がれ地に伏して オトシしばしなみだにくれにける(北村精次)  オトシ四十八手の綾のあぜ コトバ四十と七手はかけたまえど 御縁の切れ目かご運の尽きはか 神の見捨てのことなれば 残りしひと手がつゆ忘れ 途方に暮れしおりからに オトシあらなさけないわが身かな コトバ駿河の国にいるときは ひと手も忘れぬ綾のあぜ ひと手忘れてどおしょおか オトシしばし思案にくれにける(村上万作)    近年のナラトロジーの立場からは、コトバは作中世界外からの客観的叙述、ウレイはあぜかけ姫自身の独白、オトシはあぜかけ姫に同情する作中世界内の匿名の観察者の声、ということになるのかもしれない。つまり発話の責任主体は多層化しており、各声の違いが音調によって示される。しかも、冒頭部の「四十八手の綾のあぜ」の扱いに象徴されるように、(ほぼ)同じ文句が説教師によってコトバともオトシとも、ウレイともコトバとも扱われうる。さらに、村上万作の「オトシあらなさけないわが身かな」においては、ウレイ的文句にオトシのフシがつけられている。つまりあぜかけ姫と匿名者の声が混然一体化しているのではなかろうか。  関連して想起されるのは、以下のような西欧の「多声」研究の系譜である。ロシアの文学理論家ミハエル・バフチンは、複数の旋律が重なり合う音楽から発想をえて「多声」概念を提唱した。例えばドストエフスキーの小説では、同一人物の声に多重人格的な複数の主体が観察される、という。これを言語研究に応用したのが、フランスの言語学者オズワルド・デュクロである。同じく理由を提示するフランス語のparce que( be―cause)Xとpuisque ( since)Xではその機能が決定的に異なる、という。日本語に置き換えるならば「天気がいいので、散歩しよう。」と「天気がいいのなら、散歩しよう。」の違いで、傍線部Xの責任を持つのは前者においては発話者であるが、後者においては対話者の方になる。  また、フランスやドイツの一九世紀の文学作品を分析したマルセル・ヴィヨームによれば、語りには以下のような性質の異なる二つの層が混在するという。  【第一層】この老人は辛辣なコトバで周囲を怯えさせてはいたが、性根そのものは非常に明るいものだった。【第二層】ただ、いま私たち(=語り手と聞き手)が位置しているこの時期には、【第一層】数日間、彼は悲嘆し荒れていた。(スタンダール『リュシアン・ルーヴェン』)  作家は時間線に沿って継起的に物語り、これがいわゆる地の文を構成する。出来事は過去時制におかれる。しかし、各出来事の現場においてもいわば実況中継が展開され、ここでは、現在時制が基本になる。兵藤説に強引に寄せるならば、前者はコトバ、後者はオトシということにもなろう。また、前者ではクロノス的時間が、後者では現在中心の時間が機能する。  しかし他方で、欧米語と日本語では、決定的な違いがあるのではなかろうか。前者においては各発話主体や各層の峻別が比較的に容易であるが、日本語においてはどうなのか。例えば、以下の遠藤周作の一節について考えてみたい。  【独白】自分(=工藤)は代金を払わずにこの煙草を受けとった。ああ言う場合、相手の気持を傷つけないで金を渡すにはどうした表現を使っていいのか、【客観的叙述】彼のまずい仏蘭西語ではうまく言えなかった。礼を言って店を出たが、【匿名の声】工藤の掌には青年の汗ばんだ大きな手の感触だけではなく、なにか鬱陶しいものが、残っている。(遠藤周作『留学』)  発話主体がめまぐるしく転換されるが、日本語話者のわれわれにとっては、いささかの不自然もない。また、いちおう【客観的叙述】に分類したが、「彼のまずい仏蘭西語ではうまく言えなかった。」は【客観的叙述】でもあり【独白】でもあり【匿名の声】でもあろう。つまり、複数の声が不可分に混交している。  日本の近代文学は西欧を模範として、声の均質化、客観的な叙述を目指してきたのかもしれない。しかし、文字や発話者に優先する声そのもの、自他の境界の曖昧さ、クロノス化する以前の本源的時間性は、日本語の基層で厳然と機能しているのではなかろうか。  兵藤氏は、「盲僧琵琶の語り物・兵藤コレクション」なる録画・録音の膨大なデータベースを構築された。これらは、大阪大学中之島芸術センターや成城大学民俗学研究所に所蔵されているが、その一部がネット上で視聴できる(コレクションのリストとネット上のリンクが、巻末にあげられている)。また書籍としては異例ながら、兵藤裕己『琵琶法師』(岩波新書)には、演唱のDVDが付帯している(岩波現代文庫として新装版が刊行された)。文字の人間であった評者にとって、盲僧・琵琶法師の動画は鮮烈な印象のものであった。(あべ・ひろし=宮城学院女子大学教授・東北大学名誉教授・一般言語学・フランス語学・日仏対照言語学)  ★ひょうどう・ひろみ=学習院大学教授・日本文学・芸能論。著書に『太平記〈よみ〉の可能性』(サントリー学芸賞)、『〈声〉の国民国家・日本』(のちに『〈声〉の国民国家』に改題、やまなし文学賞)など。一九五〇年生。

書籍

書籍名 物語伝承論
ISBN13 9784791777228
ISBN10 4791777220