2026/09/18号 6面

刑務所の文章教室

刑務所の文章教室 大塚 敦子著 掛川 直之  「刑務所の文章教室」。「刑務所」と「文章教室」という組み合わせから、まず思い浮かぶのは、「反省文」の書き方を教えるようなプログラムかもしれない。罪に問われた人に、まず「反省」を求める。そのことは、私たちにとっては、いかにも当然のことのように思えるかもしれない。では、罪に問われた人に、私たちはどのような言葉を求めているのだろうか。それは、「申し訳ありませんでした」「被害者に申し訳ないと思います」「これに懲りて再犯はしません」といった悔悟の言葉なのだろう。これまでの刑事司法が罪に問われた人びとに求めてきた言葉も、まさにこうした「反省」の型だったのではないだろうか。  本書を読みながら、ふと思い出した一冊がある。岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮社、二〇一三)である。罪に問われた人に「反省」を求めれば、そこで語られるのは、本人の言葉というよりも、社会や処遇者が期待する模範的な「反省」になりかねない。岡本が問いかけたのは、そうした反省を急がせるのではなく、まず本人が何を感じ、何を考えていたのかを語れるようにすることの大切さだった。こうした岡本の問題提起は、中村正『脱暴力の臨床社会学』(人文書院、二〇二五)と重ねて読むと、いっそう輪郭がはっきりする。ここで中村が重視するのは、「反省」を求める前に、まず本人の「言い訳」を聴くことである。「言い訳」というと、責任逃れのように聞こえるかもしれない。しかし、そこには、その人がその出来事をどのように理解し、自らの行為をどう正当化し、何を恐れ、何から目をそらしてきたのかが現れる。だからこそ、それを聴くことは、免責することではなく、自らの行為に向き合っていくための入口になるというのである。  こうした議論を重ね合わせてみると、本書が編む「文章教室」で大切にされてきたことの意味が、少し違って見えてくる。そこで求められているのは、模範的な「反省」の言葉でも、上手な文章を書くことでもなかった。重視されているのは、むしろ自分のなかにある思いや経験を、自分自身の言葉で表現できるようになることにあったのだ。それは、「反省文」の書き方を教えるようなプログラムとはまったく趣を異にするものだった。著者自身、「文章創作プログラムの目的は作品をつくることではなく、自分の思いを言語化できるようにすること」にあると述べている。その言葉の意図をさらに端的に示すのが、「嫌なことを嫌だと言えるように、自分の言葉を持ってほしい」という一節である。ここで目指されているのは、文章表現の技術を身につけることではない。自分の気持ちや経験を、自分自身の言葉で捉え直し、それを他者に伝えられるようになることにある。  そして本書が興味深いのは、そのためには「書くこと」だけでは足りないと考えている点にある。著者は、「人が自分の声を持つには、聴いてくれる人が必要」だと強調する。書くという行為は一人でもできる。けれども、書いたものを誰かに受け止めてもらい、その声に耳を傾けてもらうことで、はじめて自分の言葉になっていくのだという。「刑務所の文章教室」の受講生の一人が、出所後に困ったら母親や施設の職員に「相談する」と語る場面はその象徴であるといえよう。かつては何をどう言葉にすればよいのかわからず、一人で抱え込んでいた人が、誰かに助けを求められるようになったのである。  著者は、「まずは自らの回復のプロセスを経なければ、更生するのはむずかしい」と述べ、さらに、「自分などどうでもいい存在だと思っていたら、他者を尊重することも、他者の痛みを想像することもできません」と指摘する。これは、罪に問われた人の話を聴き、「支援」すれば犯罪がなくなるという単純な話ではない。むしろ、自らの行為に向き合い、他者の痛みを想像するためにも、まず自分自身を一人の人間として扱えることが必要なのだということである。「嫌だ」と言うこと、「助けて」と言うこと、そして自分のしたことを自分の言葉で語ること。罪に問われた人に求められる「反省」とは、あらかじめ用意された言葉を語らせることではなく、そうした言葉を獲得していく過程のその先にこそあるのではないだろうか。本書は、刑務所における文章教室の実践を通して、そのことを静かに問いかけている。(かけがわ・なおゆき=立教大学コミュニティ福祉学部准教授・社会福祉学)  ★おおつか・あつこ=ジャーナリスト・ノンフィクション作家。著書に『さよなら エルマおばあさん』(第三十二回講談社出版文化賞絵本賞、第五十回小学館児童出版文化賞)『ギヴ・ミー・ア・チャンス』など。

書籍

書籍名 刑務所の文章教室
ISBN13 9784314012164
ISBN10 4314012161