2026/10/09号 7面

幕末維新 会津藩士名鑑

加藤隆士編著『幕末維新 会津藩士名鑑』【新訂増補版】を読む(中村彰彦)
加藤 隆士編著『幕末維新 会津藩士名鑑』【新訂増補版】を読む 中村 彰彦  会津史研究を志す者を長く困惑させてきたのは、『幕末維新人名辞典』会津版といった書籍が存在しないことであった。  昭和の末から会津史の森に分け入った筆者も困惑組のひとりで、会津若松市立会津図書館で野口信一編『会津人物文献目録』(歴史春秋社)という本があることを教えられたり、昭和六十三年(一九八八)に新人物往来社から出版された家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名辞典 第二巻』の「会津藩」の項目の執筆者宮崎十三八氏に質問したりして、その場その場を凌いできた。  この中で記述の詳しさでは宮崎氏執筆の「会津藩」の項が最良だが、全体の量は百五頁分、百八十六名しか立項されていない。仙台藩関係者約一万五千人の情報を集積したものとして昭和八年(一九三三)に刊行された菊田定郷編著『仙台人名大辞書』に匹敵する会津藩関係の総合的人名辞典は、今日までついに編纂されることがなかったのである。  しかしこのほど、この大きな欠落を埋めてくれる大労作が登場した。それが加藤隆士を編著者とする『幕末維新会津藩士名鑑【新訂増補版】』。「序」によると、題名に【新訂増補版】とあるのは二〇一七年にこの大著の原本を五十部印刷の私家版として刊行したことがあったためだという。  ただし、その私家版にしても収録人数一万四千三百余名、分量は五百六十六ページ。【新訂増補版】の方は人数二万三千余名、分量千二百七十六頁に達しており、『仙台人名大辞書』の人物情報を約八千人分も上回っているところが瞠目に値する。出版元は、良心的な本作りで知られた岩田書院。初版部数は三百部と少ないため定価はやや高めだが、来年は西南戦争から百五十周年、再来年は戊辰戦争百六十周年に当たっており、幕末維新ブームの波が起こるだろう。図書館や大学には、本書をぜひライブラリーの一冊とすることをお勧めしたい。  と言っておいて以下のようにつづけるのは変かも知れないが、二万人以上の人物群像の履歴を独力で記述するという手間のかかる作業を、野球の完全試合のようにパーフェクトに完結させることは至難の業だ。本書にも、記述を再考してほしい箇所が散見された。編著者と版元には、再版の際にこの拙文を修正意見とみなしていただくとうれしく思う。  ①「加藤寛六郎」の項に、号は「六国」とあるのは六石の誤りでは。加藤は磊磊(磊落)たる気概でありたいと願うあまり、磊磊の語に石が六つあることから六石と号した、と『会津文献目録』所載の同人関係史料にある。  ②「神保雪子」の項に、明治元年八月二十三日「中野竹子らとともに、娘子隊、婦女隊として柳橋付近で戦ったが、西軍に捕らえられ自刃」とあるが、傍点部分は平石弁蔵『会津戊辰戦争』改訂増補版、山川健次郎監修『会津戊辰戦史』等の誤った記述を踏襲してしまっている。雪子が戦わずして西軍に捕らえられ、自刃した事実については塩谷七重郎「土佐と会津」(『会津史談』第六十一号)を参照されたい。  ③「松坂鯛二」の項に、「父三内は文久三年大和郡山に公用出張中、天誅組と間違われ、同藩軍奉行薮内極人に殺された」とあるが、薮内は薮田の誤り。筆者は平成三年(一九九一)に『五左衛門坂の敵討』と題して松坂鯛二の薮田極人に対する敵討譚を書く際、薮田家子孫の野田倭氏(奈良市在住)にコンタクトを取り、『薮田家譜』を提供されたことがある。  ④ないものねだりになってしまうが、立項してほしかった人物として甘利源治の名を挙げておきたい。甘利は伊豆韮山出身、会津藩準藩士に採り立てられて薩摩藩邸に集結した討幕派浪士の内に潜入。薩摩藩邸焼討事件を成功に導いた影の立役者である(『会津戊辰戦史』七九~八三頁参照)。  ⑤会津松平家家中屈指の名門は田中正玄にはじまる田中家だが、その三百取りの分家の最後の当主「田中八郎兵衛」まで立項されているのには驚いた。昨年以来、筆者は諱を玄文といった八郎兵衛の長女茂登について調査。戊辰八月二十三日、本家の田中土佐邸にいたと覚しき十歳の茂登が入ってきた敵影を見て自刃しようとすると、その男に制止された。茂登はやがてその土佐藩郷士和田屯と結ばれ、十三人もの子供たちに恵まれて、今は青山墓地の和田家墓所に眠る。  こういった新事実もあるので、筆者は編著者の超人的な努力に敬意を表しながらも、いずれ増補再版の刊行を、祈りたくなった。(なかむら・あきひこ=小説家)  ★かとう・たかし=元出版社勤務。慶應義塾大学文学部史学科国史専攻卒業。共著に『平安遺文索引編』『儒者・根本雄介』『常陸出身 根本雄介書簡集』など。一九四九年生。

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