解き放たれた無 啓蒙と絶滅
レイ・ブラシエ著
飯盛 元章
ビッグリップと呼ばれる宇宙終焉シナリオがある。それにしたがえば、はるか未来において、宇宙の加速膨張によって銀河系や惑星系は崩壊し、さらにはあらゆる物質が素粒子へと引き裂かれることになる。その後、ほぼ永遠とも言える時間のあいだ、ほぼ無限に広がる宇宙空間をただ素粒子だけが飛び交うようになるだろう。私たち人間が存在したという痕跡は、いっさい消滅する。そんなものは存在しなかった、ということになるのだ。
レイ・ブラシエ著『解き放たれた無──啓蒙と絶滅』は、こうした宇宙的な絶滅の概念を手がかりに、人間を宇宙の中心から追放し、徹底した虚無へと突き落とすことを試みた著作だ。著者のブラシエは、「思弁的実在論」のオリジナル・メンバーの一人である。思弁的実在論とは、二〇〇〇年代後半から二〇一〇年代前半にかけて、現代思想の分野において一世を風靡した潮流だ。日本のみならず、世界中で関連書籍が多数出版された。ブラシエ以外のオリジナル・メンバー(カンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、イアン・ハミルトン・グラント)に関しては、すでに主要著作の邦訳が刊行されている。今回の出版によって、思弁的実在論・四天王の邦訳がついに出揃ったことになる。
思弁的実在論が試みるのは、「相関主義」と呼ばれる枠組みを越えて、実在そのものについて語ることである。そもそもカント以降の近現代哲学において(とりわけ二〇世紀の言語論的転回以降)、思考と存在の相関が重視されてきた。わたしたちが語りうるのは、思考と相関した存在、つまり、思考の意味づけがすっかり浸透した限りでの存在だけだ、というわけである。この発想が相関主義だ。相関主義からすれば、世界はそもそも人間的な意味であらかじめ貫かれていることになる。だが、思弁的実在論は、この前提に異議を唱える。思考との相関を外れた存在そのものを示し、人間を宇宙の中心から徹底して追放すること。ブラシエは、まさにこうしたことを試みている。
とはいえ、本書は、非常に難解で読みにくい著作である。大半が、さまざまな哲学者の議論の紹介と考察に充てられていて、著者自身の積極的な主張がなかなか見えてこないのだ。第一章から第六章の各章では、一人ないし二人の哲学者が取り上げられる。第一章はセラーズとチャーチランド、第二章はアドルノとホルクハイマー、第三章はメイヤスー、第四章はバディウ、第五章はラリュエル、第六章はハイデガーとドゥルーズだ。どれも一級の難解さを有する哲学者ばかりである。ブラシエは、これらの哲学者の議論を紹介していくのだが、それぞれの独特の用語法をそのままなぞるような仕方で説明していくので、元々それらの議論に習熟しているのでなければ付いていくのはかなり難しい。各哲学者の考察をとおして、ほんの少しだけブラシエ自身の積極的な主張が見えてくることになる。だが、彼の主張がよりはっきりとした仕方で示されるのは、最終章の第七章においてである。ここでは、ニーチェ、リオタール、レヴィナス、フロイトが取り上げられ、絶滅をめぐる議論が一気に練り上げられることになる。
本書は、このようにさまざまな哲学者の読解を試みたものだと言える。それぞれの読解が重要な役割を担っているのだが、最後の絶滅をめぐる議論につながるものとして、とりわけメイヤスーについての考察は重要な位置を占めているように思われる。ブラシエは、メイヤスーの相関主義批判に共鳴しつつ、メイヤスーの議論の不徹底さを見抜き、そして、それに対する応答として絶滅の概念を提示した。このようにまとめることができそうだ。この最短ルートのまとめで、ブラシエの主張を確認しておこう。
メイヤスーは、過去に存在した生命を示す物証である化石の概念を拡張し、生命の誕生に先立つ出来事や実在を示す物証を「原化石」と呼ぶ。化石は、かつて存在していた生命(恐竜など)を指し示している。同様に、原化石(たとえば、はるか彼方の星からの光)は、思考が誕生する以前の世界を指し示している。原化石は、過去方向に関して、思考と相関しない存在を指し示しているのであり、相関主義者には受け入れがたいものとなる。メイヤスーはこのことを、相関主義者からの想定しうる反論を踏まえながら、巧みに論証していく。
だが、ブラシエは、このように思考の誕生に先立つ世界の存在を提示するだけでは、相関主義批判として不十分であると指摘する。かつて意識(思考)が誕生するという劇的なイベントが生じた。そして、その後は、相関主義が問題なく成立する、思考の意味づけに貫かれた世界が展開するようになった。このように言っているだけであり、これでは相関主義を徹底的に追い落とすことにはつながらない。ブラシエは、相関主義者を思考の徹底した無意味さに突き落とすことを目指す。そのために持ち出されるのが、絶滅の概念だ。
ブラシエは、リオタールの「太陽の破局」をめぐる議論を参照する。太陽は数十億年後に内部の水素を使い果たして、膨張すると予想されている。地球がまるごと太陽に飲み込まれ、地球上のすべての生命は必然的に絶滅することになる。リオタールは、この太陽の破局によって、哲学者が思考の超越論的な条件として提示するあらゆるものがすべて焼き尽くされるのだと論じる。そしてリオタールは、ここからさらに一歩進んで、「あらゆるものはすでに死んでいる」とさえ主張する。ブラシエは、この太陽の破局をより徹底させて、ビッグリップ的な宇宙規模の絶滅の概念を提示する。それは、思考にとっていっさいの燃料を提供することのない、圧倒的な無意味さなのである。
以上、かなり端折った仕方ではあるが、ブラシエの議論のポイントを紹介してきた。最後に、小さな疑問点を示しておきたい。ブラシエは、思考の無意味さを示す絶滅が、主体のうちに「トラウマ」として刻まれている、と論じる。それは、現象学者にとっての死(ハイデガー)や他者(レヴィナス)とは異なり、思考を駆動させる燃料とはけっしてなりえないものである。思考の権能を絶対的に打ち砕くものに関する傷が思考のうちに刻まれている、というわけだ。だが、これでさえも、燃料に変換されてしまうことはないのだろうか。そうならないためには、実在の側から、思考がいかなる有意味な役割も果たさないような世界モデルを積極的に示すことが必要になるのではないか。ブラシエは、思考の側からその圧倒的な限界地点を描き出すということを(いわば現象学の破壊の現象学を)試みたが、視点を反転させて、実在の側から、思考がたんなる脇役程度(あるいはそれ以下)の役割しか果たさないような形而上学的描像を積極的に描き出すことが必要になるのではないか。(仲山ひふみ監訳/小林卓也・島田貴史訳)(いいもり・もとあき=中央大学兼任講師・哲学)
★レイ・ブラシエ=ベイルート・アメリカン大学哲学科教授。
書籍
| 書籍名 | 解き放たれた無 啓蒙と絶滅 |
| ISBN13 | 9784309231754 |
| ISBN10 | 4309231756 |
