祈りのアナーキー
堀 真悟著
丸川 哲史
読み終えて、本書に出会うべき密かな必然性に強く思い至らざるを得なかった。それは端的にシモーヌ・ヴェイユの名に由来するもので、一つは、本紙にて重信房子氏のインタビューを試みる中で、刑務所で作られた短歌にその名が刻み込まれていたこと。そしてもう一つ、障がい者の介助労働を生業としている究極Q太郎氏の大岡信賞受賞スピーチの中でもその名が聞かれたこと、今回はこのことを記したい。朝日新聞主催で開かれた帝国ホテルにて挙行されたQ太郎氏の受賞式には、パラリンピック関係者への受賞式も同時に行われていた。私はパラリンピックに反対はしない。ただ、それが広告資本とのタイアップで進められていること、また皇室の「列席」と「手話」などの関与により引き立てられていることなど、モヤモヤ感があることは表明せざるを得ない。いずれにせよ、Q太郎氏が発したその名はそのような会場で響き渡ったのである。つまり、その瞬間、帝国ホテルの宴会場は世界の(闘いの)最前線になった、と私は直感した。
本書は、近年の隠然たるブームとしてもなっているヴェイユへの「注意」の最前線に躍り出た、と私は思う。読者に紹介されるべき点として、まずユダヤ系たる彼女の後半の人生はナチスに追われて行くプロセスであるが、シオニズム運動について、既に批判を展開していた事実がある(実は生前のガンディも同様にシオニズム批判を展開していた)。本書はまさにそこを起点として、イスラエルによるガザ攻撃の歴史的意味にも食い込んでいく。さらに本書は、合衆国に渡った後のヴェイユが黒人系教会で出会った霊歌(スピリチュアルズ)に打ちのめされた事績を踏まえつつ、米ヒップホップカルチャーが持つ潜勢力を引き出し、さらにそれを川崎生まれの在日ラッパーFUNIへ、また類まれな作品『犯行声明』を世に出したNORIKIYOへと筆が進んでいく。ここで合言葉となるキーワードは果たして「脱獄」。この「脱獄」はまさに、監獄に入れられた者が、その外の世界をも監獄だとして、そこからの脱出を支援するという、監獄の内と外をひっくり返す技としてのヒップホップのテーマそのものだが、著者は「ヒップホップとはそれじたい、神が自らの無きあとの宇宙に残した「置き手紙」なのではないか」「ヒップホップの神様は恩寵をヒップホップという仕方で差し出すものである」と記すのだ。
すなわち、本書の最大のメリットは、ヴェイユが提示していた霊性や「祈り」の次元に最大限着目し、さらにその先にあるべき課題を見事に言い当てる、言い当て続けていることにある。例えば本書は、東京の郊外に広がる開発された「田園都市」が持つ、ネオリベラルな統治の在り様に食い込んでいく。私事で申し訳ないが、私は、田園都市線のたまプラーザ駅から歩いて十分ほどのところに一年間ほど住んでいたが、そこで感じていた言語化できない違和感というもの、つまりそのような開発都市が強いる人間や自然への「軽蔑(=管理)」の視線を本書は言い当てている。まぎれもなくそのような統治の在り様はヴェイユの目を通じた「注意」によって暴かれるのだ。
最後に、私が人生において、ヴェイユの名を初めて聞いた情景を記したい。一九八〇年代前半、明治大学で光州事件の記録を上映したり、徐兄弟の支援活動をしたりしていた時に出会った、岩淵達治先生との出会いである。韓国やアジアのことを専門にしているわけでもない岩淵先生が、なぜか私たちの活動に共感をもって接してくれ、私たちの作ったパンフレットへの反応として、シモーヌ・ヴェイユを読みなさいと助言された。おそらく、私たちの文章の質に対して何か言いたかったのではないか、と今になって思い当たる。その後で経験したのは「支援」という運動用語の裏にある当事者性への問いである。当事者性とは社会学系統の用語であるが、それを文学的次元、宗教的次元で言い直すとすれば、あるいは生きなおすとすれば、…。私はなんと、四十年の歳月を経て、シモーヌ・ヴェイユの名とともにまたその問いに出会いなおすことになった。(まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論)
★ほり・しんご=立教大学ほか兼任講師・社会学・キリスト教思想。
書籍
| 書籍名 | 祈りのアナーキー |
| ISBN13 | 9784865032192 |
| ISBN10 | 4865032193 |
