漢字辞典の謎
小山 鉄郎著
森 貴志
手で文字を書く機会が少なくなった。書類はワープロソフトで作成され(もちろんこの原稿もそうである)、会議などの資料はペーパーレスといってデータで配付される。画面上で作業をする場合は手でメモをとることが減る。手書きの手紙もほぼない(そもそも手紙というメディアさえ消えつつある)。メール、あるいはSNSなどがコミュニケーションツールとして一般的になっている。手で文字を書くことがなくなってきている。
本書は、「なぜ似ている 白川静『字統』と諸橋轍次『広漢和辞典』」とやや挑発的なサブタイトルがつけられているが、この二つの辞典の類似への疑問を解明しようとしながら、白川静による字形や漢字の成り立ちに関する解釈を具体的に紹介するものである。白川と同じく、日本の漢字研究で大きな功績を残した諸橋轍次による『広漢和辞典』、あるいは『大漢和辞典』の「解字」(成り立ちの説明)と比較しながら、漢字(文字)そのもの、漢字の成り立ち方、文字学のあり方について言及している。
著者の小山鉄郎氏といえば、評者にとっては村上春樹に関する評論を書き続けてきた共同通信社の記者という印象が強く、漢字研究との結びつきを意識していなかった。しかし、本書以前にも『白川静入門 真・狂・遊』(平凡社新書、二〇一六年)などを著しており、白川文字学の紹介者として長年活動してきた。ちなみに同書では、村上春樹の小説を白川の文字学によって読み解く試みもなされている。
『字統』は一九八四年に白川静によって刊行された「字書」である。白川はこののち、『字訓』(一九八七年)、『字通』(一九九六年、いずれも平凡社)をまとめる。一方、『広漢和辞典』(大修館書店)は一九八一年から八二年にかけ、『大漢和辞典』(全十三巻、一九五五―六〇年)の姉妹編として全四巻で刊行された。諸橋轍次のほか、鎌田正、米山寅太郎を著者とする。本書が問うのは、『広漢和辞典』の「解字」が、白川の『字統』における「字説」と似ているのはなぜかという点である。
たとえば本書では「右」という漢字を取り上げ、その「口」の部分の解釈をめぐって二つの辞典のほか、いくつもの辞典類を参照しながら字形の解釈を紹介する。くわしくは本書を読んでいただきたいが、白川ほどの体系性と一貫性をもった字説はないと、著者はいう。そして、それぞれの漢字の成り立ちには系統性や関連性があり、そこには論理性が存在すると述べる。漢字の世界に親しみのない読者にとっても、文字が単なる記号ではなく、歴史や思想を背負った存在であることを実感させる記述が続く。
本書は「まえがき」「あとがき」のほか十六の章(項目)から構成されているが、サブタイトルの問いに応えているのは「14」以降であるといえよう。それまでは、具体的な漢字を取り上げながら、白川文字学の特徴を一般読者に平易に紹介しようとページを割いている。著者は自身を「文字学の研究者」ではないとしているが、漢字の成り立ちを「より広く、深く、明らかに」しようと、その魅力を示す。だが、ここでは白川に師事していた小林博による「無断引用されたる箇所(著作権侵害)」との指摘を紹介しながら、『広漢和辞典』と白川文字学の関係を追究する。幾度も引用される『広漢和辞典』に対する「みだりに他家の研究をとり入れたもので、その拠るところをも明記せず」(『字統』「字統の編集について」)という白川の記述についても、おそらくジャーナリストとして解明したいという態度を示していると見ることができる。
もっとも、サブタイトルが掲げる「なぜ似ているのか」という問いに対して、最終的な結論が十分に示されたとはいい難い。著者自身も「諸橋が『広漢和辞典』編纂にどのように関わっているのか、いまひとつはっきりしない」と述べている。しかし、そのことが本書の価値を決めるわけではない。本書の意義は、辞典を静的な知識の集積として見るのではなく、先行研究の継承と編纂(編集)のうえに成立する知のメディアとしてとらえ直す契機を与えた点にあろう。
辞典はしばしば客観的な知識の集積として受け止められる。しかし実際には、どの説を採用し、どの典拠を示し、どのような解釈を与えるかという編纂行為の産物でもある。本書が提起するのは、知識はいかに継承され、再編され、権威化されるのかという問題である。生成AIが膨大なテクストを学習し、その出典や影響関係が問われる現在のメディア環境のなかで、本書の問いは辞典編纂の現場にとどまらない広がりをもっている。時代は違えど、先行研究の扱い方や出典の明記といった、研究倫理の問題を考えさせる点でも、きわめて現代的な内容といえよう。著者の「真実追究の精神のリレー」ということばが響く。
手で文字を書くことが減り、文字の形を身体的に再現する機会も少なくなった。評者も授業中の板書で漢字を思い出せず、恥ずかしい思いをしたことがある。また学生たちを見ていても、メモはスマートフォンやパソコンなどに入力しており、文字を身体化する経験が減少しているように思われる。もし漢字の字形や成り立ちを理解していたなら、その文字はより深く記憶に刻まれるのかもしれない。
本書は、「漢字辞典」というメディアを通し、漢字や文字の成り立ちのみならず、知識の継承、研究倫理、そして編集のあり方までを考えさせる一冊である。(もり・たかし=梅花女子大学教授・編集者・出版メディア論)
★こやま・てつろう=元共同通信社編集委員・論説委員。村上春樹作品の解読や白川静博士の漢字学の紹介で、日本記者クラブ賞受賞。著書に『白川静入門』『村上春樹を読みつくす』『文学はおいしい。』など。一九四九年生。
書籍
| 書籍名 | 漢字辞典の謎 |
| ISBN13 | 9784846025342 |
| ISBN10 | 4846025349 |
