2026/01/23号 1面

絶対的内在とアナーキー

対談=上村忠男×長島皓平<脱構成とアナーキーな政治の可能性>『言語活動の秘蹟』・『絶対的内在とアナーキー』刊行を機に
対談=上村忠男×長島皓平 脱構成とアナーキーな政治の可能性 『言語活動の秘蹟』・『絶対的内在とアナーキー』刊行を機に  イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンの『言語活動の秘蹟 宣誓の考古学』(以文社)が、上村忠男氏の訳で刊行された。また、長島皓平氏の研究書『絶対的内在とアナーキー ジョルジョ・アガンベンの政治哲学』(法政大学出版局)も同時期に刊行され、アガンベン思想への注目が高まっている。  刊行を機に、上村氏と長島氏に対談をお願いした。(編集部)  長島 今回、上村さんはジョルジョ・アガンベン『言語活動の秘蹟』を訳出されましたね。  上村 はい。この本は、アガンベンが一九九五年から二〇一五年まで二〇年間にわたって推進してきた、全体で九巻からなる《ホモ・サケル》プロジェクトのⅡ―3に配されている本です。訳出した直接の動機は単純です。《ホモ・サケル》シリーズのうち、唯一未邦訳のままになっていたからでした。だれか訳してくれる人はいないかと秘かに待ち望んでいたのですが、いっこうに出そうにないので、同書と対をなす関係にある『オプス・デイ 任務の考古学』(以文社)を刊行された以文社に声をかけて出してもらった次第です。今回日本語で再読されて、長島さんはどのようにお感じになりましたか。  長島 この著作は、権力の正統化過程を暴く鍵となるものだと再認識しました。アガンベンは続く『王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために』(青土社)において、エーリク・ペーターゾンによる典礼史研究を礎にして、シュミットが論じた喝采による非自由主義的民主主義の正統化、そして言語活動の行為遂行性を重視します。これは《ホモ・サケル》シリーズの第1巻『ホモ・サケル 主権権力と剝き出しの生』(以文社)においても聖性をめぐって萌芽的にみられたモチーフですが、『言語活動の秘蹟』では宗教と法を宣誓の結果とすることで、言語活動の行為遂行性こそが権力理解の根底にあるのだとあらためて強調されているのが目を惹きます。権力への抵抗手段として無為を称揚するに至る、アガンベンの政治哲学ののちの変遷を見るうえで、重要な著作であることは間違いありません。  上村 そのとおりですね。ジョン・L・オースティンが『言語と行為』で提唱した言語行為論――文ないし発言のなかにはなんらかの事実を陳述する「事実確認的」なもののほかに、なんらかの行為を口に出して言うことが当の行為を実際に遂行することにほかならないような「行為遂行的」な文ないし発言があるという議論――を引き取ったところからの発言で、宣誓がパオロ・プローディの言うような「権力の秘蹟」として機能しうるのは、それがまずもって「言語活動の秘蹟」であるかぎりにおいてのことであると主張されています。  くわえて、宗教史家や文化人類学者たちの多くは宣誓の制度の存在理由を呪術的・宗教的領域に送り返すことをつうじて説明してきたが、逆に、宣誓のほうこそが言葉の本源的な行為遂行的経験として、宗教およびこれと密接に関連した法を説明することができると主張されているのも、目を惹きます。  長島 ただ、《ホモ・サケル》シリーズ全体の議論を踏まえるならば、この著作を踏まえた『王国と栄光』以降の流れのほうが重要なのではないでしょうか。言語活動の行為遂行性が神学史のなかでいかに機能し、存在論的な権力理解に受容され、『オプス・デイ』で言われる有為性の議論に繫がっていくか、という流れです。この意味では、『言語活動の秘蹟』は『王国と栄光』の前史として位置づけるのが正当かもしれません。  上村 とはいえ、出版された時期は『王国と栄光』のほうが『言語活動の秘蹟』よりも一年早かったですね。シリーズでの配列そのものは『王国と栄光』は最終的にはⅡ―4となっていて、『言語活動の秘蹟』に次ぐ順番になっていますが。そしてⅡ―5には『オプス・デイ』が配されています。  長島 それはそのとおりですね。  上村 ところで、高桑和巳さんはアガンベンが一九七五年から二〇〇四年まで三〇年にわたってさまざまな機会に発表してきたテクストから重要なものを選択・集成した『思考の潜勢力』の翻訳(月曜社)への編訳者あとがきで、アガンベンは「進化」ではなく「深化」する哲学者であると述べています。この哲学者の関心や主張はそれほどまでに一貫しており、私たちが想像するよりはるかに揺らぎがないというのですね。このとらえ方を岡田温司さんは『アガンベン読解』(平凡社)で「なかなか言い得て妙である」と評しており、私も『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』(講談社)で大筋においては高桑テーゼを受け容れてきました。  これに対して、長島さんは今回の著作『絶対的内在とアナーキー』で高桑テーゼに修正をほどこして、「深化」とともに「変化」が認められることを明らかにしようとされています。そしてとりわけアガンベンの政治哲学の内実を同定するにあたってはこの「変化」への着目が重要となると主張されています。  このあたりを含めて、長島さんの理解のうちにある政治哲学者アガンベンについて、要点をあらためて説明していただけますか。  長島 ありがとうございます。それでは、アガンベン思想の振り返りも兼ねて、まずは拙著の内容や位置づけについて整理するところから始めたいと思います。  日本におけるアガンベン解釈は、岡田さん、高桑さん、それに上村さんといった、イタリア思想を専門とする方々によって牽引されてきました。そして上村さんからも説明がありましたように、皆さんは、アガンベン思想を「深化」していくものとして捉えています。時を経るにつれて思想が深まり、より遠い到達点にたどり着くという描像です。それに対して私は、既存の要素の深化ではなく、アガンベンが新たに提示するようになった概念にこそ、彼の政治思想家として見るべき点があるのではないか。研究を進める中で、このような考えを抱くようになりました。  この変化によって前景化したのが「アナーキー」であり、アガンベンの政治思想を特徴づけるキーワードとして最もふさわしいのはこれだと私は考えています。では、彼のこの概念への着目はいかにして生じたのか。『ホモ・サケル』などの著作と比較して従前あまり注目を集めてこなかった『王国と栄光』や『オプス・デイ』、『いと高き貧しさ』といった、キリスト教神学に対する彼の取り組みにこそ、その謎を解く鍵があるのではないかというのが私の見立てです。  「アナーキー」論の中枢にはオイコノミア神学論が位置しています。主権モデルの権力理解に対して、規律や統治といった権力のモードの分析を試みたフーコーが語り落していた、キリスト教神学における統治、すなわちオイコノミアの検討こそが、生政治的主権に依拠していたアガンベンの権力論を刷新することになったのです。人間の生を、政治的権利をもつビオスと単に生きることを指すゾーエーに分割する生政治的主権は、例外状態の創出による秩序構築・維持を事とする国家主権に至るまで超越的な力を有しています。しかし、それは事物への具体的な統治実践によって支えられることで、『王国と栄光』で「統治機械」とアガンベンが呼ぶ機構を形成する。超越的な主権と内在的な統治の二つが互いに正統性を備給し合うことで時に超越的に、時に内在的に作動する現代の権力パラダイムが形成されるというわけです。  そしてこの母型は、世界を超越的に創造した神と内在的に統治する神とを架橋しなければならないという課題を自らに課したキリスト教神学の構図そのものだと、アガンベンは喝破します。アガンベンは『王国と栄光』で主権と統治を両立させる統治機械の正統化の範型をキリスト教神学の三位一体に見出したことによって、自身の権力論を刷新するに至ったのです。  上村 超越と内在の断絶を架橋する試みとしてのキリスト教神学ですか。  長島 ええ。そしてここにこそ、重要な点が潜んでいるのです。神性の超越と内在の断絶を架橋する試みは、結局のところ理論的に成功しなかったというのがそれです。キリスト教神学は、三位一体の教義によってこの断絶を解消しようとしました。このとき、世界に内在して救済を代行する「息子」のペルソナは、父たる神のうちにその実体としての根拠をもたないとされます。そのため、息子の位格は根拠を欠いた純粋な活動、すなわち無根拠=アナーキーに他なりません。  また、この三位一体論が形成する統治機械を作動させるのが、行為遂行的な典礼、すなわち神の賛美ということになります。神の栄光の賛美こそが、三位一体である神の正統性を備給し、神の支配と統治を可能にするということです。これと同様に現代の権力においても、統治機械を機能させるのは「賛美」「喝采」といった無根拠でパフォーマティブな言語行為に過ぎない。典礼によって、主権の超越性と統治の内在性の断絶が危ういところで糊塗されているのです。  このように究極的にはアナーキーな主権と統治の両極からなる統治機械の正統化というモチーフが、アガンベンの議論の核心でした。そしてこれが、主権権力に対する抵抗の端緒ともなります。統治機械の正統性が言語行為に依拠しているのであれば、それに従わねばならない理由などどこにもない。むしろ、賛美をしないでいること、すなわち「無為」によって権力に抵抗することが可能になるわけです。  長島 これを理論的に支えるのが「絶対的内在」という概念です。超越者の虚構性を暴き立てたアガンベンは、例えば石が石であることといった、世界が生起していることそのものに超越性を見いだします。それが絶対的内在です。すでに『到来する共同体』(月曜社)において、この絶対的内在という観念は提起されていました。  この発想は、二〇世紀の第二次スピノザ・ルネサンスの潮流に位置付けられます。ホッブズやシュミット的な主権者という超越的な政治的審級なしに、スピノザ的な内在主義に立脚して、共同性を志向するものです。くわえてアガンベンは、伝統的な実体主義的な存在理解が主権権力を基礎づけるものであったと批判して、様態主義を掲げます。  アガンベンの権力論の存在論的な要諦は、形而上学的実体概念に基づく哲学は人間の生を分割する生政治的主権を基礎づける、すなわちウーシア(実体)の定義に刻まれた分割こそが人間の生のビオスとゾーエーへの分割の基礎にある、と喝破することにありました。それに対し彼が提示するのは、分割を原理的に内包した存在ではなく、様態としての存在理解です。  存在を、生を分割し、超越的かつ内在的に事物に働きかける統治機械を機能させる行為遂行的な有為性の存在論に、無為を通じて抵抗するアガンベンの哲学はあらゆる存在の生起を肯定します。これこそが、アガンベンの政治思想の核心である――このように拙著は主張しました。  上村 二〇世紀の第二次スピノザ・ルネサンスといえば、フランスでの五月革命前後の時期に起こった流れを引き継いで、イタリアでも「赤い旅団」によるアルド・モーロ誘拐殺害事件の首謀者として逮捕された《アウトノミーア》運動の理論的指導者アントニオ・ネグリが『野生のアノマリー スピノザにおける力能と権力』(作品社)を獄中で執筆しています。  長島 ネグリのスピノザ解釈はアガンベンの読解と鮮烈な対照をなしています。ネグリはスピノザの思想において「力能(potenza)」と「権力(potere)」を対比したうえで、権力に対抗して力能が増大していくというポジティブな側面を重視します。しかし、アガンベンの読解は「緊張(tensione)」あるいは「トノス(tonos)」という概念を前面に押し出すものです。結果、従来提起されてきたスピノザ理解とは一見相容れないようにも思われる思想が結実しています。  上村 「トノス」というのはもともとは古代ギリシアで弦の張り具合を指すのに用いられていた音楽用語で、そこから「緊張」という意味で使われるようになったのですね。スピノザの『エチカ』第三部「感情の起源と本性について」には定理六に「おのおのの事物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執しようと努める(conatur)」とあったのち、定理七で「おのおのの事物が自己の有に固執しようと努めるコーナートゥス(conatus)はその事物の現実的な本質にほかならない」とされています。ここで出てくる「コーナートゥス」というラテン語に、イタリアの訳者たちは「スフォルツォ(sforzo)」という訳語をあてがってきました。日本でも畠中尚志と上野修とも「努力」と訳しています。  しかし、アガンベンは「スフォルツォ」=「努力」では主観による意志という意味合いが付きまとうとして、ここはむしろ「緊張」もしくは「トノス」と訳すべきだと提言するのです。この例に見られるような、スピノザの術語に関するアガンベンの解釈を精査することは、アガンベン読解にも大いに資することでしょう。  長島 ネグリについては上村さんはかなり批判的ですね。  上村 ええ。ネグリがスピノザから取り出して描きあげようとしている「構成する共和国」像はあまりにも直截的にマテリアルであり、自己のありように対する反省の契機を欠如させていて、オプティミスティックです。しかし、ネグリが現存の法形式をとった国家に対決して実践しようとしている「転覆の政治」が、内部に反省の契機を欠如させた物質的集合理性――「マルチチュード」――の直接無媒介なたえざる自己構成の営みと了解されるとき、そこから出現するとされる新しいデモクラティックな共和国が、それ自体ひとつの自己抑圧的な全体主義的社会でない保証ははたしてあるのだろうかと案じざるをえません。  私は、ネグリが批判するジャンニ・ヴァッティモとピエール・アルド・ロヴァッティの共著『弱い思考』(法政大学出版局)に代表される思想傾向のほうをむしろ評価したいと述べてきましたが、それはこの意味においてです。  長島 なるほど。  上村 この点では、『目的のない手段』(以文社)所収のノート「〈生の形式〉」におけるアガンベンの「ジェネラル・インテレクト(一般的知性)」理解も問題なしとは言えません。「ジェネラル・インテレクト」というのは、マルクスが『経済学批判要綱』において、機械装置の導入による生産工程の合理化が進行するなかで労働に代わって主要な生産力になると示唆した要素です。これをネグリは『マルクスを超えるマルクス』(作品社)と銘打った『経済学批判要綱』研究で、生産の原動力の新たな現代的形態として評価するわけですが、アガンベンも、そこに〈生の形式〉の最も有力な現代的形態を見てとろうとする。  しかし、同じく『目的のない手段』に収録されているノート「人権の彼方に」では、国民国家の枠組みからのつねなる脱出状態にある難民こそが、現代における新しい政治的共同体のありようを思考するのに唯一可能な形象であるとされていたのでした。この〈難民〉という形象が孕む可能性への留意と、マルクスの言う「ジェネラル・インテレクト」の潜勢力に依拠した〈到来する共同体〉の展望とのあいだには、断絶とは言わないまでも、齟齬があるのではないでしょうか。  長島 その一方で、アガンベンが『ホモ・サケル』の第一部「主権の論理」で、カフカの寓話「法の前に」を題材にとった「主権の逆説」についての論述を締めくくるにあたり、ジャン=リュック・ナンシーの一九八一年の論考「遺棄されてあること」から示唆を得て、主権とはまさしくこの「私たちがそこへと遺棄されてある、法の彼方の法」のことであるとするとともに、遺棄されてあることをあらゆる法観念の彼方で思考することができて初めて、主権の逆説から脱して、いかなる禁令=追放からも解き放たれた政治へとおもむくことができると述べていることに、上村さんはアガンベンに出会った当初からことのほか注目されてこられました。  上村 そうなんです。このアガンベンの発言は「政治を関係の彼方で思考する」という私がかねてより抱懐していた思念を心強く後押ししてくれるように感じたのです。同様の後押しは、プロティノスが『エンネアデス』第六論集第九論文「善なるもの 一なるもの」で、神々と「神々のごとき幸福な人々」、すなわち哲学者たちの生活を定義するのに用いている「単独者のもとへの単独者の亡命(phygē monou pros monon)」という定式について、アガンベンが『身体の使用』(みすず書房)の第三部「〈生の形式〉」第六節で提示している解釈からも受けました。  長島 私自身はといえば、上村さんは取りあげられていませんが、ネグリが二〇〇七年に発表した「ジョルジョ・アガンベン 弁証法の分別ある趣味」という英文の論考で「実存的な、運命的な、恐ろしい影にとどまり、絶え間なく死の理念との対決を余儀なくされている」アガンベンと、「文献学や言語学的分析に没頭することで存在の力を獲得する」アガンベンとの「二人のアガンベンがいるように思われる」と述べていることに注目しました。そして今回の著書では、ネグリの言う「二人のアガンベン」をいかに架橋するかという点に腐心しています。  上村 その長島さんの腐心のひとつの結果が今回の著作の「結語」における総括的な発言なのでしょうね。「結語」で長島さんは、『身体の使用』で統治不可能な〈生の形式〉に立脚しつつ権力の無根拠を明るみに出す「様態的存在論の政治」を提示したアガンベンの政治哲学を、西洋思想史が孕む問題へのオルタナティブを提起した点で特異な重要性を有していると評価します。  そのうえで、「しかし」と言葉を接いで、その政治哲学における制度化の局面には固有の困難があるとの指摘をなさっています。「様態的存在論の政治」をいかに具体的で持続的な制度として構想しうるか、すなわち、制度化不可能な〈生の形式〉の制度化という問題がそれであるというのですね。  しかし、この結論には疑問があります。そもそも制度化にこだわる理由はどこにあるのでしょうか。アナーキーという理念は、一切の制度化から抜け出ていく方向に徹底させてもよいのではないでしょうか。  長島 この問題はアガンベンの政治哲学が提起する「脱構成」に係わってきます。『身体の使用』の終盤でアガンベンは、脱構成〔体制に基づかない共同体を志向すること〕は構成〔憲法のような体制を打ち建て秩序付けること〕と一致するのだという、逆説的な議論を展開しています。また、あるインタビューのなかで「脱構成と制度化は、ラングとパロールのように弁証法的な関係を描く」とも語っています。ベンヤミンの言う脱措定やシモーヌ・ヴェイユの脱創造に連なる概念としての脱構成は、いかにして創造に転化していくかという課題を常に胚胎していたわけです。  そもそも、「脱構成」という概念は、アルゼンチンなどにおいて生じていた、権力奪取を目指さずに支配を拒絶するという新たな制度化を期待しない社会運動に淵源していました。アガンベンにおいて再定式化された脱構成論のこの前史の意義は低く見積もられるべきではないでしょう。  上村 アガンベンが『身体の使用』のエピローグで「脱構成の作業(destituzione)は余すところなく構成の作業(costituzione)と一致する」と述べているのは、なんら逆説的なことではないのではないですか。直後に出てくる「措定(posizione)は脱措定(deposizione)のうちにおいてしか内実をもたない」というのが真意であって、これはそれまでの説明に照らしてみても逆説でもなんでもないでしょうから。  長島 おっしゃる通りではあると思います。政治思想史の文脈における構成的権力〔憲法制定権力〕論への批判として、アガンベンにおける脱構成的構成を理解するべきだと拙著においても論じました。それでも脱構成を、諸手を挙げて無批判に賞賛するべきではないと考える理由がいくつかありました。  まず私が念頭に置いていたのは『身体の使用』の刊行以来生じた、アガンベンの脱構成論への賛否相半ばする反応でした。構成と区別された制度化(istituzione)に期待を寄せるロベルト・エスポジトによる批判や、脱構成論を継受し発展させんとするマルチェロ・タッリによる議論を踏まえ、脱構成が有する可能性を吟味したかったという次第です。というのも、拙著で試みたのは、アガンベンの政治思想が、理論的対抗関係にある同時代的な思想に至るまでの布置において、いかなる重要性を有しているのかを明らかにすることでもあったからです。  また、もう一つは政治的抵抗としての脱構成が有するアクチュアリティについて検討する必要に迫られたからです。アガンベンの抵抗論の特色は、民衆の蜂起が目的と手段の連関から離れたところから立ち上がってしまうという、自然発生的なあり方に強い共感を示すところです。他方、こうして蜂起した者たちは、蜂起は組織化可能であるのか、制度を樹立すべきなのか、すべきだとしたらどのような制度が望ましいのか、といった問題に直面することになります。  たとえボトムアップの評議会制を採用してもアガンベン的な脱構成の議論から離反することになるが、制度化を経なければ蜂起そのものが立ち消えてしまう。この相剋に接したときに、脱構成が有する可能性に期待をかけるとともに、脱構成論がさらなる検討を必要としていることを認めざるを得ませんでした。  とりわけ、「脱構成」を主題のひとつとして掲げる政治理論誌である『HAPAX』の編集に携わる中で、このような問いに真剣に取り組まざるを得なくなったのです。  上村 それであれば長島さんはご存じだと思いますが、私が二〇一二年の秋、当時『みすず』に連載していた「ヘテロトピア通信」に書いた「夜のティックーン」と「到来する蜂起」と題する二本のエッセイを『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』に収録したところ、『来たるべき蜂起』翻訳委員会の後継者を名乗る「マーク・ダカン協会」から「上村忠男氏への8年目の応答」と題する二〇二〇年三月一四日付の文書が送られてきました。 私はこの「到来する蜂起」論考に、二〇〇七年に『到来する蜂起(L'insurrection qui vient)』を世に問うた「不可視委員会」も、その日本語訳を『来たるべき蜂起』と銘打って彩流社から出した翻訳委員会も、その時点ではなおもコミューンに期待を寄せていたのに対し、二〇一一年三月一一日に起きた東北地方太平洋沖を震源とする地震による福島第一原子力発電所の事故後に出た『来たるべき蜂起』翻訳委員会+ティクーン著『反―装置論』(以文社)では、そのような夢そのものを捨て去ってしまったようだと書き記していました。 これは、同書に「装置の装置である原発は微粒子となって飛散し、社会の〈絆〉をすみずみにゆきわたらせる。〔…〕この被曝イメージの遍在による捕獲をしりぞけるために、われわれはごく端的に反社会的でなけばならない」とあるのを受けての判断でした。「アナーキー、ここにきわまれり、といったところだろうか」とも記しておきました。  これへの八年後の応答で、翻訳委員会もHAPAXも「コミューンへの夢」を放棄したことはただの一瞬もありはしないと反論したものでした。そして「問題は上村氏にとってコミューンが社会と同義とされていることにある」と断言されていました。畳みかけるようにして「そこでなお上村氏が「社会」に留まるとするなら、それはアガンベンの限界を逆照することになるはずだ」ともありました。  でも、これでは私の真意を取り違えた応答というしかありません。  上村 私は「社会」に留まっているのではなくて、徹底して反社会的でなければならないとしている「三・一一」後の翻訳委員会の新しいアナーキーな立ち位置にこそ共感しているのです。  その一方で、もし翻訳委員会やHAPAXが「コミューンへの夢」を抱き続けているのだとしたなら、長崎浩さんも『共同体の救済と病理』(作品社)で鋭くも指摘しているように、そうした「共同性」への欲望に潜む病理をこそ問題にしたいと思います。  長島 実のところ、これはある種の不幸なすれ違いと呼ぶべきではないのでしょうか。というのも、彼らは「社会」を拒絶するアナーキーな立場を変えたことはなく、救済共同体の陥穽にはまることのないコミューンの理念を模索し続けているためです。  しかし、アガンベンとその受容者たちの関係も単純ではありません。不可視委員会は、既存の革命論を自家薬籠中の物としながら「革命」の換骨奪胎を志向することもありました。しかしアガンベンは抵抗を重視する人なのであって、革命に賭けたことはないでしょう。革命において目的によって暴力的手段を裁可する、という目的手段連関から逃れようとしたという点はアーレントと共通するところですが、彼の無為論の一つの特徴は、政治的行為について、既存の共和主義的な徳を基底とする発想とは別の軸から考えることです。  じっさいアーレントの行為論は、潜勢力を現勢化させ続けることを要求しますし、彼女の革命論においても政体を樹立した革命の背後にある排除に注意は払われない。現代に至るまでの既存の政治思想の大半は、政治的共同性を模索する際に政治的権利を持てるものとそうでないものとの区別を温存してしまうのです。  しかし、アガンベンにおける抵抗や蜂起は異なります。日本の例に引き寄せるならば、三里塚闘争や水俣病患者たちの運動のように、農村丸ごとが立ち上がってしまう。誰が立ち上がるか予見できないところから蜂起が生起すると考える点に、政治的主体にいかなる条件をも課さない彼の政治思想の重要な特徴があります。  上村 日本でも長崎浩さんが「革命」ではなく「叛乱」についての思索を深めてきました。そして最近は「他力の思想」ということを言い始めています。ここには、アガンベンの思想、とくに二〇二二年の著作『現実化しえないもの 存在論の政治に向けて』(みすず書房)において提示されている「可能的なものはそれ自体がすでにつねに現実的なものなので、現実化しえない」という、カントの『遺稿集』の精読をつうじて導き出した「自己触発(autoeffezione)」という概念と通じあうものが看取されます。  長島 「自己触発」という概念は、私たちの新著と相前後する時期に出たアガンベンの最新の論文集『河口にて』でさらに立ちいって展開されていますね。不可能性に踵を接するものとしての純粋自己触発論です。見てきたように、アガンベンは、自立して安定的な存在観ではなく、音楽的な存在観、流動的でリズム的な緊張のなかにある存在観を打ち出します。  ただ、そうした存在理解が直接、主権権力への抵抗に結びつくかどうかには、疑問が残ります。様態的、あるいは音楽的な存在論がどのような政治的抵抗の形をとりうるのかについて、読み手の側に踏み込んだ解釈を必要とするのではないでしょうか。  上村 それはどうでしょう。アガンベンは「自己触発」をスピノザの『エチカ』第一部の定理一八にある「内在的原因(causa immanens)」と等置しています。自身の外ではなくて「自身の内に結果を産み出す原因」のことです。くわえてアガンベンは「自己触発」のうちに『カルマン』(みすず書房)などで主題的に取り組んだ、能動態と受動態の対立以前のところにある中動態とも相通じるものを見てとっています。  このような「自己触発」からなる〈生の形式〉の可能性に賭けるほうが、主権権力を脱構成ないし脱措定するには、「抵抗」の欠如をあげつらうよりもよほど生産的ではないかと私は考えます。  長島 田崎英明さんが『無能な者たちの共同体』(未來社)以来志向してきておられる態度とも通じあう生のありようですね。  上村 ええ、そうです。が、それはさておくとして、いま長島さんが言及された『河口にて』は、巻頭に「いくつかの河の三角州で起きているように、思考は河口に到達したときには小川や小さな淀みとなって拡散し消え去っていく。そしてそれらの小川や小さな淀みの各々が流れ全体をなんらかの仕方でみずからのうちに縮約する」とあるように、これまでのアガンベンの思考をみずから振り返って要約してみせた本です。  これらのエッセイをとおして、私たちもアガンベンの思考の焦点がどのあたりにあったのかを再確認することができます。と同時に、今後どの方向に向かおうとしているのかもうかがい知ることができるようなのです。  なかでも、一番目と二番目に配されている「生きる、あるいは失われた時間について」と「アナーキー的な可能態」は、今回の長島さんの本のタイトルにもなっている「絶対的内在とアナーキー」と深く通底するところがあって、このテーマを私たち自身が引き受けて展開していくうえでまたとない道案内人を務めてくれるのではないかと思います。  長島 最後に、アガンベンの思想的影響関係についてお話しさせてください。私はこれまで、イタリア以外のヨーロッパ人思想家の影響を強く意識していました。しかしながら、彼は南欧においても豊かな人的ネットワークを持ち、例えばエンツォ・メランドリやエルサ・モランテ、ホセ・ベルガミンといった人たちと盛んに交流しています。こうした人間関係が、アガンベンの私的な生を形作ってきたのだと思い至っています。  上村 実は今、メランドリ『線と円』の翻訳に取り組んでいるのですよ。アナロジーについて論じた本で、フーコーの『知の考古学』(一九六九年)と同時期、一九六八年に出版されています。しかし、フーコーはこの著作で国際的にも急速に名を上げましたが、メランドリはイタリアでほとんど評価されませんでした。  そうしたなか、早くから『線と円』に注目していたアガンベンの尽力で、三六年後の二〇〇四年になってようやく再版されることになったのです。再版には、アガンベン自身「ある考古学の考古学」という長文の序論を寄せています。また、『事物のしるし 方法について』(筑摩書房)でも立ち入って論じています。  長島 そうなんですか。アガンベンも、メランドリの再評価を試みたいという前史を背負っているのだろうと想像していましたが、なかなか今の段階では手を出せていません。  上村 その意味でアガンベンは、非常に早い段階からイタリア思想自体にも高い関心を抱いており、その後も何らかの形で深めていっているところがありますね。(おわり)  ★うえむら・ただお=東京外国語大学名誉教授・思想史。著書に『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』、訳書に『身体の使用』など。一九四一年生。  ★ながしま・こうへい=日本学術振興会特別研究員PD・立命館大学専門研究員・政治思想。共訳書に『聖徒の革命』『アメリカ左派の外交政策』。一九九四年生。

書籍

書籍名 絶対的内在とアナーキー
ISBN13 9784588151446
ISBN10 4588151444