追悼=山中恒
野上 暁
児童読物作家の山中恒さんが三月一三日に享年九四歳で亡くなった。昨年七月に奥さんに先立たれ、一月に胆管閉塞で入院されたが二月には退院し、自宅と施設を行ったり来たりしているというので、お元気なうちに伺うと、亡くなられる数日前に娘さんと電話で話していた矢先だった。
山中さんは一九三一年七月二〇日、北海道小樽市で生まれた。早稲田大学在学中の一九五三年、早大童話会で古田足日、鳥越信、神宮輝夫さんらと同会の会報に「少年文学の旗の下に!」(後に「少年文学宣言」といわれる)というメッセージを発表し、旧態依然としていた日本の児童文学の閉鎖性を鋭く批判した。それまでの童話観に対して、変革の論理に立脚した合理的で科学的な批判精神に基づいた「少年文学」の必要性を主張。このメンバーが中心になって作った「小さい仲間の会」の機関誌『小さい仲間』の創刊号から連載されたのが山中恒の「赤毛のポチ」だった。
この作品は、日本で最初のリアリズム児童文学だと評価され、連載中から大変な話題を呼び、単行本になる前に児童文学者協会の新人賞や児童福祉文化賞を受賞した。日本の児童文学は、この作品あたりから大きく変わり、山中さんは一九六〇年四月に『とべたら本こ』、七月に『赤毛のポチ』、八月に『サムライの子』と、わずか半年足らずのあいだに三冊の長編作品を出版する。以後六〇年代から七〇年代にかけて、『天文子守唄』『うすらでかぶつ』『ぼくがぼくであること』『三人泣きばやし』などの長編話題作を次々と出版して日本の児童文学界を牽引するとともに、市販雑誌での連載を毎月何本も持つ売れっ子作家となる。
雑誌での連載作品はエンターテインメント性も強く、それだけ多くの読者を惹き付けた。そんなことから、当時の児童文学評論家たちに「山中の読み物は面白いだけで文学性が乏しい」などと言われ、山中さんはそれを逆手にとって「児童文学作家」といわれるのを嫌い「児童読物作家」を自称することになる。エッセイ集『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社)には、課題図書批判なども含めてその頃の子どもの本についての山中さんの思いのたけが語られている。
作品的には『山中恒児童よみもの選集』(全二〇巻、毎日新聞社)に結実し、巖谷小波文芸賞を受賞した。これらの作品に後の作品も加えた『山中恒よみもの文庫』(全二〇巻、理論社)も刊行された。両シリーズにも収載された「あばれはっちゃく」はテレビドラマになり、六年間も放映されて人気を呼ぶ。映画化された作品も多く、とりわけ大林宣彦監督による「転校生」(原作「おれがあいつであいつがおれで」)や「さびしんぼう」(原作「なんだかへんて子」)は話題を呼んだ。山中作品は時代を越えて読み継がれ、半世紀前に書かれた読み物が「角川つばさ文庫」などにもたくさん収められ、今も子どもたちを魅了している。
戦時下に少年時代を過ごした山中さんは、軍国少年としてお国のために戦って死ぬものだと信じていた。当時の子どもたちが、なぜそのような気持ちに駆り立てられたのか、山中さんは手に入りにくい戦時下の膨大な資料を駆使して、自らの少国民時代の国策と子ども文化やメディアを徹底検証する。その成果が、大作「ボクラ少国民」シリーズ(全五部+補巻一 辺境社)を始め、『少国民の名のもとに』『新聞は戦争を美化せよ!』『すっきりわかる「靖国神社」問題』(小学館)、『アジア・太平洋戦争史』(岩波書店)、『少国民戦争文化史』(辺境社)、『戦時児童文学論』『靖国の子』(大月書店)、『山中恒と読む修身教書』(子どもの未来社)など、関連書籍がつい最近まで書き継がれてきた。そして戦後八〇年の昨年には、新たな戦前といわれるこの国の現況を睨み、『増補版戦時下の絵本と教育勅語』(子どもの未来社)のを刊行している。
山中さんの書庫には、様々なメディアがこぞって戦意高揚のプロパガンダに動員された戦時下の膨大な資料が残されている。それらをもとに、まだまだ検証すべきことをたくさん構想していたのに、それが見られなくなったことは残念で悲しい。ご冥福を祈る。(のがみ・あきら=児童文学・文化評論家)
やまなか・ひさし(児童読物作家)=二〇二六年三月十三日、老衰のため死去。九四歳。
