2025/12/05号 4面

天保北前船漂民

天保北前船漂民 木崎 良平著・木崎 弘美編 岡部 克哉  本書の内容に入る前に述べておかなければならないことがある。著者の木崎良平氏はロシア史・日露交渉史の大家として知られているが、二〇〇三年にすでに鬼籍に入られている。編者によれば、本書の原稿は著者の残した書類の中から見つかったとのことで、原稿の日付に従えば、一九九七年頃までに完成していたようだ。いずれにせよ今から二〇年以上前のものであることは確実で、最新の研究動向や史料の公開状況が反映されていないことは編者が指摘している通りである。もっとも、この点は本書の魅力を損なってはいない。  本書はその姉妹編とされる『光太夫とラクスマン』および『仙台漂民とレザノフ』と同様、ロシアによる日本人漂流民の送還と幕府の対応を丹念に追っていくことで、当時の日露関係や幕府の対外姿勢を明らかにするものだ。タイトルと副題が示す通り、中心に据えられているのは、異国船打払令停止の前後に日本に送還された二組の北前船漂民である。著者によれば、「北前船」とは「江戸時代から明治時代初頭にかけて日本海航路に活躍した日本海地域に船籍を持つ船の総称」であり、本書の前半では一八三二年に遭難した五社丸が、後半では一八三九年に遭難した長者丸がそれぞれ取り上げられている。  著者は二つの北前船とその漂民たちの動向、つまり遭難からロシア船による送還、その後の幕府による取り調べから帰郷までの足取りを、複数の史料を厳格に突き合わせつつ解明していく。著者の言葉を借りれば、「過去の出来事を正確に復元すること」が歴史学の第一の任務なのである。しかし同時に、歴史学は事実の復元で終わるものではなく、「復元された出来事を歴史の大きな流れの中に置き」、「意味を把握することが必要」だという。これは『光太夫とラクスマン』と『仙台漂民とレザノフ』からの一貫した姿勢であり、本書の魅力もそこにある。  五社丸・長者丸漂民の送還を担ったのはロシア政府の管轄下にある露米会社だった。同社は元々ロシアの北アメリカ植民地経営を担っていたが、それが行き詰まりをみせるなかでオホーツク方面に関心を移し、その結果として日本との交易関係樹立が問題となった、と著者は論じる。露米会社にとって漂民送還は、対日貿易開始の糸口だったわけである。だが、五社丸漂民を乗せたウナラシカ号が蝦夷地に渡来した当時、江戸幕府はオランダ船等を除く異国船を事情を問わず打払うことを命じた異国船打払令を布いていた。ウナラシカ号も打払われて撤退したが、漂民たちは沖合で解放され、日本帰還を果たすこととなる。著者は、この事件をモリソン号事件など同時期の事例とも比較することで、江戸幕府が異国船打払令施行後も、長崎を通じた日本人漂民の受け入れを従来通り継続していたことを明らかにする。その数年後、今度はプロムィスル号が長者丸漂民を連れて択捉島沖に現れるが、この時までに幕府は異国船打払令を停止していた。長者丸漂民たちは、松前藩の役人を通じて現地で引き渡されることになる。しかし著者によれば、この漂民受領は現場の独断で行われたもので、幕府は長崎を通じた漂民受け入れという従来の方針を変えていなかった。つまり、「漂民受領形式」の観点からすれば、異国船打払令施行前後、そしてその停止後まで幕府の姿勢は一貫していたということになる。  著者の理解によると、幕府はロシア第二回遣日使節レザノフ渡来に際して、中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国とは国交を結ばず、通商関係ももたないことを示したことで、一八〇五年に「鎖国体制」を確立していた。一八二五年の異国船打払令がその体制に攘夷色を付け加えることとなるが、アヘン戦争など緊迫する国際情勢を背景に一八四二年に停止される。この停止は一見すると幕府が開国へ傾きだした証拠と捉えられかねないが、上述のような鎖国理解や「漂民受領形式」の一貫性を踏まえれば、一八〇五年の「鎖国体制」への復帰に過ぎなかった、というのが本書の中心的な主張ということになるだろう。  国際関係においては微妙なニュアンスの違いが大きな意味を持ってくる。本書はニュアンスを細かくおさえていくことで、幕府の対外政策の全体像をより高い解像度で描き出そうとした研究といえるだろう。このような姿勢は、他の時代・地域の国際関係史・政治外交史を扱ううえでも手本とすべきところがある。  最後にあえて付け加えれば、本書は姉妹編に比してロシア側や日露関係に関する議論が少なく、日露交渉史の色合いが薄まった印象を受ける。著者がロシア史家であったことを考えれば大変残念であるが、この点は後進に委ねられたということかもしれない。(おかべ・かつや=北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター助教・日露関係史)  ★きざき・りょうへい(一九二四―二〇〇三)=鹿児島大学名誉教授・日露交渉史。著書に『漂流民とロシア』『光太夫とラクスマン』など。

書籍

書籍名 天保北前船漂民
ISBN13 9784887084919
ISBN10 4887084919