2026/04/24号 3面

「三・一一以後」の世界と〈市民社会の弁証法〉の行方

「三・一一以後」の世界と〈市民社会の弁証法〉の行方 高橋 順一著 浜野 喬士  本書は全五巻からなる高橋順一氏の構想の第一巻である。本書の主題には「転回点(Wendepunkt)」という印象的な言葉が選ばれている。それは深い喪失の感覚と、また直接的には「三・一一」、すなわち東日本大震災および福島第一原子力発電所事故に結び付けられている。高橋氏の「転回点」とは「不可逆性、再帰・回復の不可能性」(二六頁)の表現であり、氏が三・一一の映像から受けた「自分たちの世界が、さらには近代という時代が終わりを迎えつつあるのではないかという、〈黙示録的〉ともいうべき衝撃」(同頁)を言語化したものと言える。  しかし問題を複雑にしているのは、この「転回点」が、そう単純には同定できないという可能性がある、という点である。高橋氏は、本書のプロローグにおいて、トーマス・マンの息子、クラウス・マンの作品、『転回点(Wendepunkt)』を引きつつ、次のように述べている。「ただこうもいえるのではないだろうか。ここで問題となっているのは、じつは本当の意味での「転回点」が成就されていないこと、二度と戻ることの出来ないはずの過去がまだ生き延びてしまっていることなのではないか、ということである」(二四頁)。  確かに、二〇〇一年の九月一一日の米同時多発テロ、いわゆる「九・一一」は、これまでの世界の日常がすべて消滅してしまったような黙示録的感覚を人々に与えた。しかし世界は終わらなかった。また本書の主要部執筆後に起きた二〇一九年新型コロナウイルスのパンデミックも、世界の「終わり」の感覚を生々しく惹起した。しかし世界は終わらなかった。  このような理屈からすれば「終わり」の候補は複数存在してしまうことになる。典型的な黙示録ないし終末論が、間近に迫った終末とその後に続く新時代、という形式を持つものだとすると、こうした「終わり」の絶えざる延期は、黙示録的、終末論的構造を幸か不幸か無限に脱臼させながら、緩慢に問題を悪化させていくように見える(例えば二〇二六年現在の、「終わらない」世界における、国際政治の状況の悪化)。  しかしこうした隘路あるいは疑似問題に本書が陥ることはない。それは高橋氏が本書の副題に掲げる「市民社会の弁証法」という問題設定および方法論のためである。「市民社会の弁証法」とは、「[…]近代産業文明の起源・動因であると同時に、近代産業文明と国家、資本の癒着・結託を通じて形成され作動してきた構造的暴力、実定的にいえば近代世界の支配=権力連関の根源をなしてきたもの」(四九頁)とされる。こうした高橋氏の視座に立てば、「三・一一」は、確かに決定的な「転回点」だが、その同一線上には「九・一一」が開示した新自由主義や新保守主義、新「帝国」の問題が遠因としてあり、さらにその線を伸ばせば近代啓蒙主体と近代資本主義の同時的な成立をめぐる問題が系譜をなして存在しているのである。  したがって高橋氏にとっての当面の仕事とは、「転回点」とはいつか、といった預言者的なものではなく、「転回点」の「以前」を形成しているイデオロギーと、その成立にあたって寄与した諸条件の思想的総決算を行うこと、になるだろう。  本書第一部では、近代市民社会の論理が、近代の定義、構造、全体主義、高度消費社会、新自由主義、新保守主義といったトピックから概観され、またマキャヴェリ、ホッブズ、ロック、サド、マルクス、ニーチェ、マックス・ウェーバーらが展開した思考と視座の分析がなされる。  本書第二部では、アドルノが検討の対象となり、ホルクハイマーとの共著の『啓蒙の弁証法』のオデュッセウス論、セイレーンの物語、ミメーシス論が詳細に検討され、近代市民社会の啓蒙的主体が示す「自己保存と自己喪失の弁証法」(二八〇頁)の機制が明らかにされる。  本書第三部ではマルクスが、価値形態論、その認識論的意味、剰余価値論、資本の無限運動といった観点から扱われ、近代市民社会を根底において支配しているものの根源的な解明が試みられる。また同部補論では伊吹浩一氏の『はじまりの哲学:アルチュセールとラカン』が検討される。 本書第四部ではニーチェが主題になり、その系譜学的な戦略と力への意志の契機が、市民社会の弁証法の解明、すなわち批判という観点から検討される。  以上のような具体的な作業を通じて析出される「市民社会の弁証法」こそが、「転回点」の「以前」を形成し、われわれを規定し続けているものである。これが本書における認識=批判の焦点である。高橋氏は次のように述べている。「私たちに求められているのは、〈以前〉が不可能になったことを直視し、〈以後〉が真の意味で可能となる臨界点、クリティカル・ポイント、つまり〈以前〉からの真の転回点を見極めることである。[…]「転回点」には、「忘れてはならないこと」と「〈以前〉へと戻ってはならないこと」という二つの意味が同時にはらまれているのである」(六七八頁)。  では〈以後〉に到来するものとは何か。それは「[…]マルクス主義理論・思想の持つポジティヴな意味でのユートピア的契機に裏打ちされた連帯と共生のための新たな〈コミュニズム〉の理念」(六三頁)と呼ばれるものである。高橋氏自身は、こうした理念の構築に寄与するだろう思想家として、ポスト構造主義の哲学者たちの名を列挙する。しかし高橋氏の思想的背景に存在するであろう、ベンヤミンやブロッホのような、ヘブライズムの深い伝統と独自のマルクス解釈の複雑な絡み合いの中で思索を紡いできた思想家群のことを考えるならば、高橋氏の理念はまた別種の色を帯びるのかもしれない。いずれにせよ第二巻の刊行が待たれる。(はまの・ たかし=明星大学教育学部教授=ドイツ近代哲学・社会思想史)  ★たかはし・じゅんいち=早稲田大学名誉教授・思想史。埼玉大学大学院修了。著者に『ヴァルター・ベンヤミン』『越境する思想』『吉本隆明と共同幻想』など。一九五〇年生。

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