2025/10/31号 6面

痛いところから見えるもの

痛いところから見えるもの 頭木 弘樹著 北條 一浩  壮絶な、という形容詞が虚しく陳腐に響かざるを得ないくらい、本書には著者が長年付き合ってきた病と痛みについての記述が多く現れる。うう……と思わず声をもらし、手が止まり、顔を上げてしまう。が、ビビッて停止している時間は意外に長くない。なぜか。おもしろいのだ。そしてわかりやすいのだ。著者が20歳で罹患した難病・潰瘍性大腸炎について何ひとつ知らないし、「どうしてこんな目に合わないといけないのか、あんまりだ」という凡庸な同情心が沸いてくる、そういうごく平均的な読者に過ぎない私にとって、早く先を読みたい気持ちが恐怖に勝り、予備知識がなくても読める文章の平易さが背中を押してくれる。  このおもしろさと平易さの背景には「絶望」があるはずだ。頭木弘樹氏にとって「絶望」は特別に重要な概念だが、本書が真正面から取り組む「痛みとは何か?」という問い、そして痛い時にはただただそれに打ちのめされているしかない「痛み」という手に負えない現象こそは、「絶望」の王者だ。著者はその絶望の渦の中から言葉を紡ぐ。それは、「痛い人」と「痛くない人」のあいだに言葉で橋を架けたい、という意欲に基づくものだ。王者に対して常に悲壮な語り口が続いていたら、おそらく読者は逃げ出し、読むのをやめ、やがて忘れてしまう。そして、痛みほど千差万別で、当事者以外には理解できない、とりわけ言葉で表すのがいかに難しいか、嫌というほど知っているからこそ、「できない」と思いつつも少しでも伝えたい、わかってもらえたらと希望する、だから言葉は平易になるのだ。  本書を読んで私が強い恐怖を感じた「絶望」は、「理由はない」という名前の絶望だ。痛みには因果関係がはっきりしている場合もある。食べ過ぎたり、冷たいものを飲み過ぎたりしてお腹が痛くなる、というようなケースがそうだ。しかし、ずっと健康だった著者は、20歳で突然、難病に襲われている。今はまだ解明されていないだけで、どんな病気や痛みにも本当は必ず何らかの因果関係があるし、それがわかれば治療法もわかるはずだ、という人もいるだろう。そうだったらいいな、と思う反面、そうしてあくまでも「理由はない」を退けようとすると、おそらく人生の時間は味気ない、つまらないものになるだろう。因果関係はレールのようなもので、こうしたらああなる、ということがわかりきっているのだから、そこから外れることはできないし、外れていくならそれは自業自得の病ということになってしまう。  なぜあの人ではなく、この私にこんな痛みがやってきたのか。そこに理由はない。なんという理不尽。しかし生きることというのはそうした「絶望」を必ず内包するものであり、しっかり健康管理している人が病気に倒れ、不摂生極まりない生活を続けている人がピンピンしている、そういう2人が共存できるのがこの世の中というものであることを、本書はあらためて教えてくれる。  ずっと読み進めてきて、ショックを受けた箇所がある。15歳で難病になり、26歳で亡くなった歌人・笹井宏之さんの短歌 廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは を紹介したあと、著者はこう書く。  「この歌に出合って、でもたしかに、壊れたからこそ見えるものもあるなあと思った。立って歩いて社会参加している〝縦の世界〟と、横になってじっと寝て社会からはみ出している〝横の世界〟とでは、見えるものがまるでちがう」  私はこの〝縦の世界〟と〝横の世界〟にショックを受けた。中根千枝氏のあの名著『タテ社会の人間関係』のように、序列や上下関係を重視するのが「縦」なら、「横」はそれと対称的に、公平性や平等を表すものとずっとイメージしてきた。しかし頭木氏にとってそれは「横になってじっと寝て社会からはみ出して」いる状態のことなのだ。  この、私には考えも及ばない「横」という言葉は、明らかに私とは違う人から発せられた言葉だと強く感じる。そしてシンプル極まりない〝縦の世界〟と〝横の世界〟という言葉は、言葉を受けとった者が間違えようのない、簡潔な物理のタテとヨコであると同時に、社会とどう関係しているかを「縦」「横」という漢字一文字で表現してしまう文学の言葉でもあると思う。  そしてこれもあきらかな本書の特徴だが、相当数の文学者の著作の中から文脈に沿った引用がなされ、しかも山田太一やシオラン、カフカ、村上春樹、ヴァージニア・ウルフなど何度も出てくる人についてはそこに著者の偏愛が感じられて愉しい。作家でも文芸批評家でもなく、「文学紹介者」を名乗る著者ならではの仕事であり、これら先行する文学者と読者をつなぐ、本書はまぎれもなく文学書である。(ほうじょう・かずひろ=ライター・編集者)  ★かしらぎ・ひろき=文学紹介者。著書に『絶望読書』『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』『食べることと出すこと』『自分疲れ』など。

書籍

書籍名 痛いところから見えるもの
ISBN13 9784163920177
ISBN10 416392017X