2026/08/21号 5面

サタンタンゴ

サタンタンゴ クラスナホルカイ・ラースロー著 川崎 祐  二〇二五年度のノーベル文学賞を受賞したハンガリーの小説家クラスナホルカイ・ラースローのデビュー作『サタン・タンゴ』は、やはりハンガリーの巨匠タル・ベーラによる同名映画の原作、と述べた方が日本では通りがいいだろうか。長回しで秋の長雨に烟る寒村を七時間超の映像に仕立て上げた映画と同様、小説もまた改行を排した文体で社会主義体制の末期と思しきハンガリーの閉鎖された農村を重々しく描写する。息詰まる文体の効果だろう。読者は雨の降り続ける小説の中に放り出されたように視界を遮られ、展開はまるで見通せない。読み心地は作者が敬愛しエピグラフにその一節を掲げるカフカ『城』のそれに近い。『サタン・タンゴ』はだから読者を不条理の中に投げ出し、放置しているとも評しうるが、六歩進んで、六歩下がるタンゴの構成を踏襲していることからも明らかなようにこの小説が構造に対して自覚的な作品であることもまた確かなのだ。事実、読者は最終章の最終盤にあって本作が始点と終点を欠いた円環構造を有していることに気づかされ必然的に再読を促されることになる。誰もが何かを待ち続け、時間は澱み、語りの視点は焦点距離を自由に変え、意識の流れに意欲的で、待望の時間の到来は必ず横滑りする――要は二十世紀文学の達成を煮詰めたような本作の再読は必ずしも気の進む作業ではない。しかし重い腰を上げ読み返せば忽ち驚愕する。混沌としていたはずの小説内の出来事が異様なほど明瞭に把握できるのだ。それは『サタン・タンゴ』が構造に自己言及的な現代小説の側面も持ち合わせているからでもあるのだが、一応、物語性の希薄なこの作品の筋を簡単に示しておこう。  解体された農場に死んだはずのかつてのリーダー=イリミアーシュが戻ってくる。村の者たちはその噂を聞きつける。彼らは劣悪な環境での生活に倦み自分たちをここから解放してくれる出来事を待ち望んでいる。イリミアーシュの帰還はその時間の到来として彼/女らに受け止められるが、彼は村の者たちの心情を正確に把握し、彼/女らの心の隙に巧みに付け入る。村に辿り着いたイリミアーシュは彼/女らに荒廃した村からの脱出を唆す。彼/女らはイリミアーシュに自分たちの未来を託し蓄えた金を差し出す。しかしそれはイリミアーシュの噓だった。彼は決して救世主ではない。当局の監視下に置かれ情報提供者を用意することを課されたごろつきにすぎないのだ。彼は村の者たちにそうと気づかせないまま彼/女らを情報提供者として各地に配置する――これらが重苦しい文体で表現される『サタン・タンゴ』は黙示録的な小説ではある。しかし二つの救済可能性が示唆されていることも見逃してはならない。その一つが一度はイリミアーシュの提案に乗りながら途中で降りるフタキの存在である。「ここを出たところで、容れ物が替わるだけ、罠のなかに捕らわれていることには何ら変わりないのだ」と感じるように彼の選択は彼の現実を変えることはないが、私たちはそれを、絶望的な現実を自ら選択する、最低限の自由の行使と見做しうる。当局への報告に「唯一の危険人物」と記述されるのはそれゆえだろう。もう一つは脱出の誘いすらなかった医者の行動に見出しうる。医者は既に医師としての能力を失っており、終始例外者的な位置にある。彼は「農場全体が、死刑判決を受けて、支柱を失い、がくりと傾いたと感じた、あの日を境に」「すべてを徹底的に観察し、継続して『記録する』ことを決意した」が、それは当局の観察と相似形をなす。しかし医者は当局の情報提供者のリストの中にいない。彼は言わば不可視の存在として当局が観察する以上に当局を正確に観察している。そして円環するこの小説はそれ自体が医者による「記録」である可能性を常に潜在させている――『サタン・タンゴ』の示す世界に救いはない。だがこの小説は観察者による「記録」という可能性をその構造に留めおくことで、名もなきひとの生を、自由を、無為の力を、かろうじて肯定し、大きなものの力に挫かれない抵抗の力点として示している。(早稲田みか訳)(かわさき・ゆう=作家・写真家)  ★クラスナホルカイ・ラースロー=ハンガリーのジュラ生まれの作家。一九八五年に小説『サタンタンゴ』でデビュー。著書に『抵抗の憂鬱』『戦争と戦争』『ジェムレはどこへ』など。マン・ブッカー国際賞、全米図書賞翻訳文学部門、ノーベル文学賞受賞。一九五四年生。

書籍

書籍名 サタンタンゴ
ISBN13 9784336078780
ISBN10 4336078785