2025/11/28号 4面

帝国の書店

帝国の書店 日比 嘉高著 植村 八潮  明治一〇年代以降、文明開化の波に乗って活版印刷による出版活動が本格化した。それまで和本を扱っていた地方書店も洋本を扱うようになり、ほどなく全国に本や雑誌を効率よく届ける専門取次業が始まる。出版社・取次・書店という近代的な出版流通システムが整うことで、数多くの出版社が誕生し、国土の隅々まで広がる大衆的な読書市場が出現した。  日本語の出版物が流通したのは、何も国内だけではない。日清戦争を機に〝帝国〟日本が侵出していった朝鮮半島や台湾、満州、樺太、さらには租借地や南洋の占有地に加え、ハワイ、北南米にある日本人街にまで運ばれた。そうした「外地」には数多くの書店が存在し、「出版物の全量の二割ちかく」が海を渡ったとされる。  本書は、日本語の出版物を扱った外地の書店と取次流通に着目し、日清戦争後から敗戦後の引揚げ期に至る変遷の考察を縦糸に、そこで活躍した書店人の個人史を横糸にして編まれた一冊である。著者の言葉を借りれば、「帝国の人と知の移動を支えた文化的基盤についての、グローバルかつローカルな史的叙述の試み」である。  これまでも書物による知のネットワークに着目した先行研究は数多くあり、本書と同様に外地の書店や書物流通の研究もある。しかし、その多くは地域を限定した研究に留まり、これほど広範囲な地域をまたいでの研究は類がない。  副題にある「書物が編んだ近代日本の知のネットワーク」とは、何も内地から外地に流れていく日本語による知の拡散だけを指すのではない。日本人と現地の人々が出会い交流する〈接触空間〉があり、日本にやってきた留学生や海外の書物が輸入されたモノの移動も含まれている。知のネットワークは錯綜し重層的な有り様を示していたのだ。  その有り様を紐解くために著者は四つの視座をおく。一つは、人。書物を運び、売った人々、買った人々である。二つ目は、本。モノでありモノ以上の知の総体であり愛着の対象でもある。三つ目は、知と権力。戦前の図書館が「思想善導」の機関として位置づけられたように、権力によって企図された「知」は読者たる国民を規律訓練した。同時に権力によって禁じられた書物も海を渡り、反権力、反帝国の意識を芽生えさせもした。最後に、商売。書店人は理想も掲げたが利益を度外視して商売しているわけではない。したたかに利潤を追求する姿勢が厳しい戦時下においても様々な人間ドラマを生んでいく。  国家による出版統制は、ある種の〈受難史〉として受け取られてきた。例えば、国家権力による出版言論弾圧である横浜事件は、権力に抗い犠牲となった出版人の物語として記憶されている。取次はすべて廃業され、国策的な配給会社に再編もされたのだ。しかし、本書では出版統制は必ずしも国による一方的な施策の強要という構図ではなく、民間業者同士が模索した合理化であり、国家による強い指導を求めた結果と指摘している。「業界の歴史を考えれば、〈受難史〉史観は成立しない」。その底流にはしたたかな「商売魂」があったのだ。  あとがきによると著者が本書を構想したのは二〇〇二年という。実に四半世紀近い月日をかけて文献を渉猟し、本書の舞台となった現地に足を運び、外地書店の痕跡を訪ねて回ったという。数多くの文献を読み込んでの分析は緻密で学術書にふさわしい記述であるが、その行間からは著者の熱意が溢れるように伝わってくる。白状すると編集部から四〇〇頁にもなる大部な本書の書評を打診された際は、いささか躊躇するところがあった。出版流通史は必ずしも専門領域とはいえず、評者としての資格に欠けているという思いもあった。しかし、読み始めてみると、学術書を読んでいることを忘れるほど面白かったのだ。なによりも登場人物が実に魅力的に描かれている。一級の物語を読むように時代の空気感や本を売ることに情熱を傾けた人々が生き生きと伝わってくる。  村﨑長昶は台湾が帝国日本へと引き渡されるその場に立ち会い、紆余曲折の後、書店を開いて成功する。戦争が終わって引き揚げてきたあと中目黒に書店を開くと、台湾から引き上げてきた人々が次々と訪ねてきたという。大阪屋号書店の創立者、濱井松之助は「一つの金槌と一つの鋸を手にして不慣れな大工の真似で書棚陳列をこつ〳〵と幾夜もかゝつて造り上げた」とある。戦前戦後、日中文化人の架け橋となった内山完造は、日本に引き揚げたら小さな図書館を開くことを夢想していたという。  本書を手にした読者は直接会うことは叶わない歴史上の書店人や本を愛した人々の物語に夢中になることだろう。(うえむら・やしお=専修大学教授・出版学)  ★ひび・よしたか=名古屋大学教授・日本近現代文学・文化論・デジタル・ヒューマニティーズ。著書に『〈自己表象〉の文学史』『ジャパニーズ・アメリカ』『いま、大学で何が起こっているのか』『文学の歴史をどう書き直すのか』『プライヴァシーの誕生』など。

書籍

書籍名 帝国の書店
ISBN13 9784000240710
ISBN10 4000240714