野暮は承知の落語家論
工藤 保則著
鈴木 亘
立川志の輔を取り上げた紀要論文を志の輔本人が読み、お礼の電話をもらったことが本書刊行のきっかけになった、ということが「あとがき」に書かれていて、なんて羨ましい!と思ってしまった。社会学を専門とする著者によって書かれた本書は、その志の輔をはじめ、古今亭志ん朝や柳家喬太郎といった落語家(そして小沢昭一、講談師の神田伯山)の芸と人生を論じたものである。
著者はまた三五年来の落語ファンでもあるという。その落語愛がどうやら並大抵ではないものであることは、「まえがき」に書かれた数々の落語会の思い出が伝えている。二つ目時代の春風亭昇太、川柳川柳の『ガーコン』、漫談家のローカル岡……。私が生で観ることが叶わなかった(「間に合わなかった」という言い方をしたりする)演者も数多く登場し、これも羨ましい。ここでとりわけ目を惹くのは、著者が落語家とその口演内容のみならず、会場の情報もひとつひとつ記していることである。柳家小三治は恒例だった八月の池袋演芸場(もしかすると私も同じ日に居合わせていたかもしれない)、桂米朝の一門会はこれも定番のサンケイホールと、知っている人であればその光景を目に浮かべ、追体験することができそうだ。
これは場所への、そして空間への関心ということでもあるだろう。実際、最初に書かれた第三章の志の輔論からすでに、その関心は始まっている。著者は志の輔が、共演者も含めた落語会という「空間」の演出にこだわっていたことに触れ、それを現代性・演劇性と並ぶ志の輔落語の特色と見る。また小沢昭一を論じた第六章では、小沢が幼少時に親しんだ寄席空間を「ふるさと」、後に新劇俳優として活動する劇場を「新天地」に喩え、さらにその後の放浪芸の蒐集を、まさにそこからの放浪として語っている。そこから比喩を拡張してみるならば、古典落語と新作落語の両方でハイレベルに活躍する喬太郎の芸を、「古典らしい新作」と「新作らしい古典」の「間(あいだ)の可能性を探る」営みとして論じる第四章も、春風亭一之輔の落語を親子や夫婦といった人間同士の関係のダイナミズムを魅せるものとして特徴づける第五章も、著者の空間的関心の延長に位置づけることができる。
字義通りのものであれ、比喩的に拡張されたものであれ、このように空間に関する論述がそこここに読み取れるのは、ことによると落語そのものが、ごく限られた素材から空間を立ち上げることを事とする芸だからかもしれない――とまで言うのは牽強付会が過ぎるだろうか。実に落語は座布団の上という限定された位置で、手ぬぐいと扇子のみを用い、左右への顔の向き替えと視線の変化というわずかな仕草で、繊細に空間を描き、登場人物の関係を示すのだ。そしてこの繊細さを著者も共有している。本書の語り口は平易で、落語を観たことがない読者でもおそらくスムーズに読み通すことができるが、そのわかりやすさもまた、著者による繊細な文体的配慮に支えられているのだろう。
そしてこのように立ち上げられた空間で、八っつぁんに熊さん、与太郎、ご隠居といったさまざまなキャラクターが笑いを繰り広げる。これらのキャラクターは多くの噺に共通して登場し、同じひとつの共同体を形成している。いわゆる「落語の国」である。第一章で著者は、フラットで無私、相互信頼の関わり合いに満ちたユートピア的なこの共同体のありようを、『たらちね』や『かぼちゃ屋』といった古典落語の実例をもとに論じている。これについては近年に出版された、人文学の議論を活かしたさまざまな落語論――中村昇『落語―哲学』(亜紀書房、二〇一八年)、『文七元結』論の収められた中島岳志『思いがけず利他』(ミシマ社、二〇二一年)、そして手前味噌で恐縮だが、森本淳生・鈴木亘編『落語と学問する』(水声社、二〇二五年)など――と内容において響き合っているから、併せて参照されたい。
本書で論じられている落語家たちは、みな江戸落語の演者である。ひとつ欲を言えば、著者が龍谷大学で教鞭をとっているからには、上方の落語家も取り上げてほしい――と、野暮を承知で思いながら読み進めていたが、あとがきによればすでに別の本でその構想があるとのこと。楽しみにしたい。(すずき・わたる=東京大学助教・美学・現代フランスの芸術思想)
★くどう・やすのり=龍谷大学社会学部教授・文化社会学。著書に『46歳で父になった社会学者』『カワイイ社会・学成熟の先をデザインする』、共編著に『無印都市の社会学 どこにでもある日常空間をフィールドワークする』など。一九六七年生。
書籍
| 書籍名 | 野暮は承知の落語家論 |
| ISBN13 | 9784787274786 |
| ISBN10 | 4787274783 |
