2026/05/01号 3面

蒋介石伝

蒋介石伝 劉 岸偉著 川島 真  日本では戦前から蔣介石の伝記が少なからず記されてきた。戦前には吉岡文六などの著作があり(『蔣介石と現代支那』東白堂書房、一九三六年)、戦後には一九七〇年代に『産経新聞』に連載され、のちに書籍として公刊された『蔣介石秘録』などがあるが、本書は今世紀に公開された蔣介石日記や新たな研究動向を踏まえた、まさに「力作」である。昨年刊行された家近亮子『蔣介石―「中華の復興」を実現した男』(ちくま新書、二〇二五年)などと合わせ読まれることで、蔣介石理解が一層豊かになるであろう。  著者が蔣介石の伝記執筆に着手したのはおよそ四半世紀前にあたる二〇〇三年だという。ちょうど、蔣介石日記が公開される少し前の時期にあたる。その後、日記がスタンフォード大学で公開され始め、日本からも多くの研究者が「スタンフォード詣で」を始めた。以後、数多くの蔣介石研究関連の国際会議が開催され、また多くの著作、論文が世界各地で刊行された。本書は「一般書」と銘打ちながらも、「諸先学の研究をふまえながら、それを鵜呑みにせず、自らの見解を打ち出」そうとし(五頁)、それに成功している。だが、「一般書」という看板のためであろうか、先行研究との相違点、オリジナリティは必ずしも明確にはされていない。  それでは本書の特徴はどこにあると言えるだろうか。管見の限り、以下の諸点に求められる。第一に、本書が蔣介石の伝記と言いながら、基本的に日本との関わりを中心に叙述されているということだ。興味深いのは、単なる日中政治外交関係だけでなく、日本の中国認識の危うさ、誤謬などが多く指摘されている点だ。本書では、日本の対中認識の多様性を踏まえ、また戦前の日本を代表する「支那通」とでもいうべき、石射猪太郎や松本重治なども中国認識を取り上げながら、日本の中国認識の問題点や誤謬を中国側の史料を踏まえて少なからず指摘する。この点は、中国の楊天石やアメリカのジェイ・テイラー(Jay Taylor)の記した蔣介石関連書籍で日本側の史料が必ずしも十分に用いられていないということへの批判にもなっている。つまり、世界の蔣介石研究という面から見れば、日本要素の協調こそが本書の特徴だと言える。  第二に、本書が必ずしも蔣介石の生涯を余すところなく描いているわけではない、ということだ。本書は、いわば蔣介石の「前半生」の伝記である。「半生」というのは、蔣介石が一九四九年末に台湾に行ってからの四半世紀の伝記が、一九五二年四月の日華平和条約以後、殆ど記されていないためである(第十三章)。この点が本書の課題であり、特徴でもある。蔣介石日記はすでにスタンフォード大学から台湾に返還され、出版が始まっているが、その出版は一九四八年部分から始まり、時系列に則して戦後台湾部分がまずは出版されていった。台湾社会では戦後部分にこそ関心が集まっているからである。また、一九四九年以後であっても蔣介石と日本との関わりは多々ある。しかし、中国では、台湾に遷ってからの蔣介石の研究は歴史評価の面で極めて敏感で難しい。本書の構成はそのような中国の研究状況を反映しているのだとも考えられる。 第三に、これは第二の点に関わるが、蔣介石をはじめとして中国近代上の事象や人物について、日本、中国、台湾などで大きく歴史認識が異なる中で、本書が極めて苦心しながらも著者自身の判断を示そうとしている点がある。例えば、蔣介石評価も、一九三一年九月十八日の満洲事変後の蔣介石による「安内攘外」について、現在の中国では蔣介石の対日政策として極めて批判が強いが、本書ではこの不抵抗政策は張学良起源のものとしつつ(二六六―二六七頁)、事態を知った蔣介石は極めてこの問題を重視し、「中国の対日政策を未来に起きる世界大戦に連動させ、それと一体化して最後の勝利を勝ち取る」という構想を持っていたとする(二八一頁)。他方、汪精衛については、その政治構想について理解を示しながらも、「政治家として洞察力も決断力もなく、乗りかけた舟からも降りられず、その成り行きに身を任せた感が否めない」(四二四頁)と、昨今の研究動向とは異なり、手厳しい。なお、本書で随所に織り込まれている中国共産党、毛沢東に対する評価は基本的に肯定的に描かれている。  これらの特徴を踏まえ、本書の内容を批判的に検討するならば、少なからぬ論点が提起できる。ここでは、紙幅の都合で二点あげておきたい。第一は、すでに多くの研究が指摘するように蔣介石日記は蔣介石の心情理解には適しているが、中華民国、国民党の政策理解においては十分ではない。対外政策であれば国民党文書や中国外交文書との併用が求められる。本書では日本のアジア歴史資料センターの文書は利用されているが、台湾でオンライン公開されている諸文書は利用されていないようだ。第二は、日本語の表記の問題だ。例えば、「日中戦争」ではなく「中日戦争」、「日中関係」ではなく「中日関係」という言葉を日本語の書籍で用いるに際しては、史料引用としては問題ないが、地の文で用いるには歴史観が関わる面もあり検討が求められるだろう。また、「国民党連合軍駐在代表団長何世礼」といった叙述(六七一頁)については、国民党ではなく「中華民国(本書の略称では民国)」ではなかろうか。そして、一九五〇年七月のマッカーサーの「連合国軍司令官」への任命(六七二頁)についても、この“United Nations Command”は、日本語では「連合国軍」ではなく「国連軍」だろう。これらの叙述は、中国語の表現が残されたものだろう。このほか、「羅文干」(二八七頁、日本語の常用漢字では羅文幹)などは中国語の簡体字表記になっている。なお、表記だけでなく、水上機母艦能登呂を航空母艦とするなど(二八四頁)、修正を要するところもある。重版に際しての検討を期待したい。(かわしま・まこと=東京大学教授・アジア政治外交史・アジア政治論)  ★りゅう・がんい=東京工業大学名誉教授・比較文学・比較文化。著書に『周作人伝』など。

書籍

書籍名 蒋介石伝
ISBN13 9784623094783
ISBN10 4623094782