哲学史にしおりをはさむ
熊野 純彦著
谷川 嘉浩
熊野純彦といえば、哲学書の優れた訳者であるというイメージが強い。レヴィナス『全体性と無限』、ハイデガー『存在と時間』、カント三批判書、ヘーゲル『精神現象学』、ベルクソン『物質と記憶』。哲学の道に踏み入って、独仏系の哲学に関心を抱いた者は、彼の翻訳に一度も触れないことは難しいほどだ。だが私は英米哲学ばかり追いかけていたので、彼の翻訳の世話になることはあっても、彼自身の研究に触れることはまったくなかった。恥ずかしながら「この人の翻訳があると助かる」くらいの認識しか持っていなかった。
ただし、熊野の翻訳が優れているのは、彼が大抵既訳のある本の翻訳をしていたことも大きいように思われるし、実際そう指摘されるのを何度か目にしたことがある。だが、『哲学史にしおりをはさむ』を読んでいると、「訳しなおした」というフレーズが出てきて、著者こそがその事実を最も深く自覚していたのではないかと思えてくる。
翻訳は複雑な作業だ。現代日本の読者がこの日本語をどう体験するかを想像しつつ、しかし同時に現在の哲学研究の水準に照らして、あるいは原著者の思想を踏まえて妥当な訳し方や言葉選びを徹底し、さらには訳された日本語の読みやすさや文体的な魅力を保持する。こうした作業を行うために、スペースシャトルの発射のように、既存の翻訳が積み重ねてくれた解釈や言葉選びの労力を推進力に変えて途中からは切り離して、魅力的な翻訳を仕上げていく。「訳しなおした」という熊野の言葉には、たしかに既訳への尊敬と、言葉選びにかける長い時間を感じられた。
翻訳者はその本を記した人間ではないので、読者にとっては基本的に黒子である。名工によって作られた優れたカトラリーを使っているとき、常に職人の名前や顔が気になるようでは、食事の邪魔になるのと同じだ。優れた翻訳は、読んでいるときに翻訳者の存在を意識させない。まさに熊野の翻訳はそういう文章なのだが、このエッセイ集は(当然ながら)熊野という書き手が顔を見せている。久々に友人から電話がかかってきたかと思えば、パートナーを亡くしたことを不器用に伝えるもので、著者はそのときの言葉遣いがどうにも気にかかるという文章から、人文知が危うい位置に置かれているという現状を理解するのに、同僚から聞いた話――楽譜を見てメロディを感じ取るのと同じように、小説を読んで登場人物の心情を察することが特殊技能になっているのかもしれない――をとっかかりにする文章を経て、西田幾多郎の文体の陰で見えなくなっている、木村素衛の詩的な哲学の文体を評価する文章まで。かなり「熊野純彦」という人の生活や個性を感じさせる言葉選びに満ちていた。とはいえ、彼は哲学者なので、日記ほど個人的な文章ではない。理論と経験のあいだを行く言葉だというべきかもしれない。
理論と経験のバランスがいい。しかし、お行儀のいい退屈な文章にもなっていない。たとえば、まだ哲学という分野に慣れていなかった頃に背伸びしてやった読書会で、(のちに小説家になった)友人がポロッともらした一言を単なる思い出話以上のものにする手つき。稲垣足穂が都会のビルを照らす電車のスパークに見た「ハイデッガー的消息」を介して、ハイデガーとはじめて出会った経験のこと。理論や実感のどちらかを過剰にしてしまうことで、磨くと光るはずの原石のきらめきを消滅させることは非常に容易い。その危うい道を歩める文章こそが、魅力的な哲学のエッセイというべきものなのだろう。さすがと言うほかない。これまで熊野のことを「優れた訳者」としてしか見ていなかった自分の不明を恥じた。個人的すぎるエッセイは読み飽きた読者に、本書を勧めたい。(たにがわ・よしひろ=京都市立芸術大学講師・哲学)
★くまの・すみひこ=放送大学東京文京学習センター所長・倫理学・哲学史。著書に『西洋哲学史』など。一九五八年生。
書籍
| 書籍名 | 哲学史にしおりをはさむ |
| ISBN13 | 9784791777358 |
| ISBN10 | 4791777352 |
